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セルフコントロール研究所 ~ ともぞうブログ

2011/07/26(火) 00:18:23

[考えない練習] 苦しまない練習

ブッダにならう 苦しまない練習
小池 龍之介
小学館
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『苦しまない練習』というタイトルですが、実際に書いてあるのは

自分が苦しんでいるということに気づく練習

です。
「苦しまない」ことに関しては、一貫して、「自分が苦しんでいるということに気づきさえすれば、自然に苦しまない行動を取る、苦しまないようになる」とのみ主張します。

人間の行動は、ほとんどが無意識に行われています。それを、あえて意識して行動するべし、と筆者は言います。そうすれば、自分で自分を苦しめている行動に気づき、自然とその行動が改善される、と。

精神的に苦しいと、人間の身体は影響を受けます。「いま、ここ」にある自分の身体に、ちゃんと意識を向ければ、自分が苦しんでいるということに気づけるはず。それをせず、無意識に行動して、頭の中で関係のない妄想を弄んでいるから、苦しみの本当の原因に気づけず、当然、永遠に苦しみはなくならない。

私はあんまり、誰かのことが憎くてしょうがないとか、他人に嫉妬するとかいうことはないのですが、自分の思うとおりにコトが進まないとイライラしてしょうがないことがあります。そんな私がこの本の中で、個人的になるほどと思ったのは、「選択の余地があると思うからこそ、腹が立つ」という項目です。
私たちに自由意思はない、という話は、私自身このブログで何度も書いていますが、にもかかわらず、他人の言動に腹が立つ。怒っても自分が苦しいだけで、何の得にもならないのに。
どうすれば良いかというと、相手のことを、自由意思のないロボットだと「気づく」ことです。

ブッダは「この意思は自分のものではない」という言い方をしていますけれども、世の中の人は二つに分けることができましょう。
 一つは「目覚めている人」であり、もう一つは「まどろんでいる人」です。
 いえ、誰もが目覚めているつもりでしょうけれども、自分が条件反射によって怒らされたり、何かを求めさせられたりしていることを知りません。そういう意味で「まどろんでいる」ということです。
 実は自由がないのに、そこに自由があると思い込み、ロボットのように動かされているだけなのに、「ロボットじゃない」と言い張っている。あるいは、自分が自由であると夢を見ているコンピュータ。これが「まどろんでいる」ということの実態です。


自分の意思も他人の意思も、「自由なんだ」と思い込む。自分が自由なんだという夢をみる。そういうことをやめ、なるべくいつも「目覚めている人」であること。
私的には、これが重要な「苦しまない練習」かなと思います。
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2010/11/21(日) 23:03:57

[教養] もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら

もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら
架神 恭介
イカロス出版
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パクリすぎw
上の画像では出てませんが、オビも完全にパクリです。

パンクロッカーと歴史上の名僧たちが殴り合いながら悟りの境地を目指す青春物語!
真言宗大僧都 蝉丸P推薦


新人マネージャーと野球部の仲間たちがドラッカーを読んで甲子園を目指す青春小説!
ドラッカー学会代表 上田惇生氏推薦


しかも、『もしドラ』はマネージャーが『マネジメント』だからまだマシでしたが、パンクロッカーと仏教とは、まったく関係ありません。
その上、なかみを読めば分かるんですが、まったく青春物語じゃありません

しかし、それでも私としては、わりとおすすめです。

釈尊の在命時にもこのような問題はありました。たとえば、仏教では出家者はセックスは禁止ですが、やっぱりセックスしたかったのです。ある者は死体の首を拾って、その口の中にちんこを突っ込みましたし、またある者は自分のアナルに己の長いちんこを突っ込んで、「フウー、気持ちいい! でも、セックスしてないからセーフだよね!」とか言っていました。


なんてことが書いてあります。
要は仏教の入門・解説書(残念ながら青春物語の要素はありません)なんですが、正確さを潔く犠牲にして(これはすごく勇気の要ることだと思いますが)、退屈させないように、読みやすく、比喩を駆使して、「テキトーに」説明しています。

仏教の科学的現実認識法を身につけて精神的安定をはかり、生産性を高めよう等という浅ましい勝間和代的実利追求主義は全くなく、「やればできる! がんばらなくちゃ!」とはちっとも思わない作品に仕上がっています。

仏教ってけっこうおもしろいから、知ったかぶりして楽しもうよ! という執筆態度が私は好きです。
そして「全体ドカーン」等、かなり秀逸な表現が、さりげなく「適当に」ちりばめられていて、なかなか素敵です。

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2010/08/22(日) 15:05:41

[考えない練習] 一切皆苦

タバコが美味い理由として、『読むだけで絶対やめられる禁煙セラピー (ムックセレクト)』に、次のような趣旨のことが書いてありました。

タバコを吸うことによって、タバコを吸っていない時間すべてが、苦痛の時間になる。タバコを吸っている時間だけが、苦痛から解放された時間になるから、いつもタバコのことしか考えられなくなる、と。

タバコをやめようとがんばった経験のある人なら、この説明、実感としてよくわかるのではないでしょうか。ぼくも、なるほどと思いました。
と同時に、でも、それならそれでいいんじゃないか、と、タバコをやめたくなかった当時のぼくは、思ってしまうわけです。
人生の楽しみなんてみんなそうじゃないか、と。
しんどい思いして仕事をするからこそ、それが終わったときには達成感や開放感が得られる。楽で簡単な仕事で得られる充実感は、たいしたことがない。
結局、「タバコの快楽はタバコを吸えない苦痛からの開放感にすぎない」という、なかなか素晴らしい発見も、禁煙にはあまり役に立ちませんでした(その他の禁煙のデメリットや、タバコに支配される不自由からの脱出を考えることが禁煙に役立ちました)。

煩悩リセット稽古帖』に、一切皆苦の説明として、次のようなことが書いてあります。
修行中、何時間も裸足で歩き続けていて、道の上の小石を踏むたびに痛みの苦を感じてから、砂地に足を踏み入れると、至福を感じる。しかし、歩き始めてすぐに砂地に入った場合、何も感じない。「楽」というのは、「苦」がなくては存在しないただの蜃気楼、思考の詐欺なのだ、と。
タバコといっしょですね。
無条件な、独立した「楽」というものはない。ただ、「苦」だけがある。「苦」から解放される時に現れる蜃気楼が「楽」である。
一切皆苦、すべてが苦である、なんて言われると、「ええ~、そんなんイヤやなあ。人生に楽しいことがなかったら生きてても仕方ないやん」と思ってしまいますけど、実はちょっと違います。
「楽しい」って何でしょう?
「ああ、今楽しいなあ」って思うこと、ありますか?
「楽しいなあ」と思うということは、自分の状態を自分で見て分析してるわけで、ある程度冷静なんですよね。つまり、あんまり夢中になってないってことなんです。本当に夢中になって今やっていることに熱中してやってる時って、そんな分析してるヒマなくて、あっという間に時間が過ぎ去ります。旅行は計画・準備の時が一番楽しいというのはそういうことで、つまり、「楽」という状態は、ないのです。あるのは、「フロー」であり、将来の「楽しみ」であり、蜃気楼の「楽」です。
そして、今やってることがやりたくないことである場合、当然やっている対象以外のことを考えますから、「はやく終わって欲しい」と思ったり、「苦しいなあ」と思ったりしますよね。だから、「苦」という状態は、あるのです。

ここまで書いてきたことが何の役に立つかというと、安易に、無条件に存在する「楽」を追い求めてしまう間違いを犯さなくなる、ということです。
努力せず、苦労しなくても、「楽」になれることがある、という勘違いをしていると、そればっかり求めてしまいますが、本当は、独立した「楽」なんて、ないのです。
タバコを吸うとリラックスできるとか楽になれるというのは勘違いで、実はタバコを吸っている瞬間だけしか楽になってはおらず、タバコを吸っていない間中ずっと「苦」なのです。酒を飲むのもお腹が空いてもいないのに食べるのも、そうすれば無条件で「楽」が得られると勘違いしているからですが、実は無条件ではないのです。依存したり身体にダメージを与えたりするのと引き替えに蜃気楼の「楽」を得ているのです。一見お手軽、カンタンに「楽」になれるように見えて、実は自分で「苦」になって、そこからの開放感を得ているだけなのです。
だから、無条件の「楽」なんてない、ということを実感として理解して、「フロー」を探すことが大事だと思うのです。

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2010/07/27(火) 23:26:23

[考えない練習] 「わかっちゃいるけどできない」改善法 ~ 煩悩リセット稽古帖2

『煩悩リセット稽古帖』は、そでの部分に

本書を少し読むと、まるで心理学の本のようだと思われるでしょう。
そう、仏道は、宗教ではなくて、お釈迦さまが見抜いた心理学。
現代に生きる私たちにこそ役に立つ精神トレーニングメソッドなのです。


と書いてあるような本ですが、しかし、第1章のはじめの「業(カルマ)」についての説明が、やや「怪しげな宗教風」に感じられてしまう気がします。
「業(カルマ)は心の中に蓄えられたエネルギー」という最初の記述より、その何ページか後の「私たちを裏から操っている潜在力、それが業(カルマ)です」という表現の方が、まだ受け入れやすいと思います。

この「業(カルマ)」というのは、私は、「反射」だと思っています。
要するに、パブロフの犬です。
身体の条件反射ではなく、脳の、脳内の電気信号とか化学物質の条件反射。

「ふつうの燃料は使うと減りますが、業(カルマ)の煩悩エネルギーは使うと増えるのです」とこの本では書かれていますが、反射の回路が太くなっていく、ということだと私は解釈しています。

同じ反応を繰り返していると、その反応に至る道が、広く通りやすくなっていく。
タバコを吸っているとどんどん吸いたくなり、毎日酒を飲んでいるとどんどん飲みたくなり、食べれば食べるほど食べたくなる。
ネガティブなことばかり考えていると発想がどんどんネガティブになっていく。

以前に書いた(「続ける」小手先の技術に頼らない)ように、『自分がたまらないほど好きになる本』という本に

行動を起こすたびに、その行動の裏にある動機となる感情、姿勢、信念を強化している


と書いてあります。

行動を起こす、あるいは起こさないことによって、我々は毎日、反射のパターン、つまり「自己」を作っているのです。

だから、正しい行動を起こして、それを続ければ、正しいパターンが身につくわけです。

ただし、気をつけないといけないことが一つ。
それは、行動分析学で言う「行動随伴性」の考え方によって、反射は身につくということです。

行動分析学入門 ―ヒトの行動の思いがけない理由 (集英社新書)』という本に、ハトにキーをつつかせる話が載っています。

ハトに、まず赤や緑の光を見せる。緑の光の後にキーをつつくと、エサが出てくる。赤の光の後にキーをつついても、エサは出ない。そうすると、ハトは赤の時はキーをつつかなくなり、緑の時だけつつくようになる。

こうやってキーをつつかせるわけですが、重要なのは、強化すべき行動の後、すぐにエサを出すということです。そうしないと、違う行動を強化してしまう。

ハトでも人間でも、こうやって行動を身につけるので、例えば、トイレの電灯をつける、という行動は、直後に明るくなってトイレが使えるのですぐに身につきますが、電灯を消す、という行動は直後には良い結果が出ないので身につけにくい。

最近私はiPadの「太鼓の達人」で遊んでいます。リズム感全くなしの下手くそですが、やってると、だんだん叩けるようになる。「うまくなってやろう」とか「どうすればうまく叩けるのか」とか、まったく考えていません。でも、やってればうまくなる。それは、自分がiPadをタップした結果が良かったのかどうか、即、画面や音でわかるからだと思います。この「即」が重要。

「行動分析学入門」でも、ハトに行動を教えた際の体験談が載っていて、行動を教える技量によって結果にものすごく差が出るということが書いてあります。

効率よく行動を教える秘訣として「即時強化」「目標は少しずつ引き上げること」「挫折をした際の対処の仕方」の3点が挙げられています。

『煩悩リセット稽古帖』でも

ネコッコの躾をする際には、現行犯で捕らえて教えるのが大切であることは申すまでもないでしょう。
同様に、わたくしたちの心をコントロールしようとするにあたっても、欲望や怒りという煩悩が湧きあがってきたそのときに、現行犯で捕らえるのが肝要です。


と書かれています。

「人間の心には双曲割引という性質があるんだ!」という発見も良いですが、むしろ、人間の行動のほとんどは反射で行われていて、反射は行動随伴性で身についていく、と理解した方が、改善する方法を考えやすいと思います。

池谷裕二が『考えない練習』の対談で言っているように

人間の行動はほとんどが脳の反射によるもので、本当は自由意思なんてないんだ、自由否定しかないんだと言うと、そのことを悲しいととらえる人がとても多くて、逆に私は衝撃を受けたんですけどね。
反射しかないんだったら、その反射を鍛えれば良い、むしろやることが限られて良いじゃないのかなと思うんですが。


と私も思います。

そして自由否定を活用して反射を組み換えるトレーニングについて、『煩悩リセット稽古帖』で

簡単かつ実用的なる新しい仏道実践法を開発いたしました。名づけて「三秒観」。


と書かれている方法。
要するに、心の動きに気づいたら、行動や言葉にしてしまう前に、3秒待つ、というだけのことです。
これで、反射として学習してしまわないようにする。
しかしこの方法、『自分がたまらないほど好きになる本』にもまったく同じ方法が載っていて、「中止法」「拡大法」と名づけられています。
アメリカを代表する心理学者と日本の僧侶、ほとんど同じことを言っています。私の実感としても、正しいです。

「わかっちゃいるけど実行できない」を実行するための訓練法は、今日紹介した本に書いてあると思うのです。

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2010/07/21(水) 22:53:30

[考えない練習] 煩悩リセット稽古帖1

『煩悩リセット稽古帖』は、『考えない練習』と同じく、小池龍之介というお坊さんが書いた、「精神トレーニングメソッド」の本です。

しかしこの本に頻出する表現。

例えば。

 ひょっとして読者の中には、「善や道徳なんかには興味ないもんッ」と思っていらっしゃる方も多いかと思いますが、ほとんどの場合、それは、嘘…ッ。
 とんでもない嘘…ッ。


とか

 無知になる……ッ。
 嘘をつくと、頭が悪くなる……ッ!


とか

 わたくしたちはまさに、取り憑かれている…ッ!
 相手を否定することにより、自分はひとあじ違っていると、差を見せつけたがっている…ッ!


とか。

ジョジョ風…ッ!
いや、カイジ風…ッ!

お坊さんらしくありません。
まあ、お坊さんらしく「……と申せましょう」みたいな表現のところも多いんですが。

内容についても、少なくとも日本の一般的なお坊さんが書いたようなものではありません。

原始仏教は、他のいわゆる「宗教」と違い、現世での修行によって悟りの境地に至ることが目的で、そのためのトレーニング・メソッドを仏陀は多くの人にレッスンして回ってたんだ、と。
そして筆者は、「仏教」は宗教的すぎるので「仏道」という言葉を用いています、と書いています。

原始仏教・上座仏教・大乗仏教そして日本の仏教の関係がイラスト入りの1ページの図でわかりやすくまとめられてもいますが、多分これって、日本のお坊さんとしてはすごく「異色」なことをしていることになるんでしょうね。「戒律が守られていない世界唯一の仏教国日本」と、批判的とも取れるコメントも書いてあります。

こういう、若くて仏教のことを一生懸命考えてる人が、ぼくらの役に立つ本を書いてくれて、その本が売れてる、というのは、悪くない…ッ。
「仏道」における「煩悩と心のプロセス」と「煩悩リセットレシピ集」を、それぞれ1ページのイラスト入りの図でまとめているのも、大胆…ッ。
たぶん、お坊さんが、こういうことをするのって、だいぶハードル高いと思う。

そして、いろいろなことが書いてありますが、ぼく的には次の部分がポイント。

「やっちゃダメだ」とわかっていてもやめられぬ…ッ。「酒・タバコをやめたい」のにやめられないとか、「たくさん食べたくない」のに食べ過ぎちゃうとか。
 対人関係で考えてみると、自慢話をしたり人に恩着せがましいことを言ったり、明らかに自分にとってマイナスに作用するとわかっていることをやってしまう……。
 つまりこれ、腹の底ではわかっていない。無知、無明。
 仏道とは、この「無知」を突破して、意志どおりに実行できるようにする道です。


勝間和代は著書の中で、「心の底から理解すること。腹落ちすれば実行できる」とあっさり書いていたように記憶しています。

いやいや、それ、仏道ですからッ!
そんな簡単にできませんからッ!

というわけで、わかっちゃいるけど実行できない、を、本当に腹落ちして実行できるようになるためのトレーニング・メソッド。知りたい方は、読んでみましょう。

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2010/02/21(日) 20:48:58

[考えない練習] 考えない練習1

考えない練習』という本を読みました。
「はじめに」の最初に、いきなりこう書いてあります。

私たちが失敗する原因はすべて、余計な考えごと、とりわけネガティブな考えごとです。



失敗する原因は「すべて」「です」と言い切ってしまっているところが、期待感を抱かせてくれます。

が、しかし。目次を見ると……

第1章 思考という病
第2章 身体と心の操り方
第3章 対談 池谷裕二×小池龍之介

となっており、第2章は「話す」「聞く」「見る」「書く/読む」「食べる」「捨てる」「触れる」「育てる」となっていて、全体のほとんどを占めています。

つまり、考えない練習について詳しく書かれているのです。

最初の一文の断言が、なぜできるかを、もっと詳しく解説して欲しかった。
それなしで、いくら練習法について詳しく書かれても。

もちろん、練習法の中で、なぜ最初の一文が言えるかについても触れられてはいるんですが、練習法の説明が終わってまとめもなしで、いきなりおまけ風の対談、というのはいかがなものかと。

ただ、私の直感は、最初の一文が正しいと告げていますので、ここで考えてみます。

著者はお坊さんなので、どうしても仏教の用語で説明してしまうんですが、それだと私たちにはかえって説得力が落ちてしまう気がします。

まず当たり前の話として、スポーツ等で集中が必要なときに、余計な考えごとをしていると、失敗します。

次に、仕事でも、考えてもしょうがない思考に邪魔されて、効率が落ちているのは、GTDで集中力が増した実感を得たことのある人なら、よくわかると思います。
「この仕事、あとどれくらいで終わるかな。ホントにこの仕事やってて良かったのかな。もっと先にやっとかなきゃいけない仕事があったような気がするな。先週金曜日に課長になんか言われたんだよな……」というのが、余計な考えごとです。そんなことは仕事を始める前に充分考えておくか、課長に言われた時にメモしておけば良かったのです。

それから、何も考えずに作業を始めれば、何ら苦痛を感じることなく終わる作業なのに、ちょっと一呼吸入れたばっかりに、「ああ、めんどくさいなあ。明日まとめてやろうかなあ」と考えてしまって、動けなくなる。

さらに、事前には「セックスしたいしたいしたい」と考えていたはずなのに、終わってみたら、全然満足してない、というか、どうでも良いこと考えながらテキトーなセックスをしてしまっていた、とか。いつも「何か食いたい」と思いながら、実際に食う時にはテレビ見ながら飲み込んでて味を覚えてない、とか。要するに、集中して味わってない。

これらはすべて、脳という器官のヤクザな性質のなせる業なのです。

もともと脳は、生命の危険を避けるため、恐怖や危機感を見逃すまいとしています。
それに対して、幸福感や穏やかな気持ち、五感から来た電気信号の中でも変化のないものは、スルーしてしまうのです。
飢えや性欲は長時間続きますが、味を感じる幸せ、射精感は一瞬で終わります。
食欲や性欲は、それがなければ必死で行動しないから強く、幸せは、ずっとそれに浸っていては危険なので、一瞬で終わります。

そして脳は、五感から来る情報に対して、データベースができあがった(大人になった)後は、割と判断が速くて、「ああ、以前のあのときと同じだな」と、すぐに飽きてしまいます。
逆に、脳内で過去のデータベースを元に作られる、特にネガティブな情報に対しては、「大丈夫かな? 危険じゃないかな?」と、長いこと考え続けちゃうんです。

「一切皆苦」ですな。

「考えない練習」では、五感を研ぎ澄ませて「思考病」を治そうとします。
GTDでは、信頼できる脳外装置に心配事をすべて吐き出すことによって、脳がクリエイティブに働くようにします(GTD ストレスフリー 余計なことを考えない)。
勝間和代も、コンサルティングを依頼されたときに、まず「考える意味があるかどうか、自分が考えることによって価値が出せるかどうか」を考えた、というようなことをどっかで読んだ気がしますw

余計なことを考えないことが重要なのはわかりました。
でも、人間ってもともと余計なことを考えるようにできてるってこともわかりました。
どうすれば良いか、次回もうちょっと考えてみようと思います。

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