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セルフコントロール研究所 ~ ともぞうブログ

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2012/01/05(木) 04:56:43

[やる気を出す方法] 良い指揮者とは

この前、佐渡裕がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮者をやったことを詳しく伝えるテレビ番組が放送されてた。
その中で、演奏する人の意見として、「一番良い指揮者は、演奏する者が『自由にやらせてもらってる』と感じさせてくれる指揮者だ」というのがあった。実際には指揮者の指揮通りに演奏するしかないし、そうしている。なのに、自分で思うとおりに演奏させてもらっているように感じる。そういう指揮がベストだと言っていた。
音楽に限らず、上司ってそうだと思う。
「やらされている」と思うか「自分がやりたくてやってる」と思うかで、モチベーションがまったく違う。
だから、錯覚でも良い。
実際、池谷裕二の本を読んでいると、脳はそういう仕組みになっているらしい。脳の状態・ゆらぎによってあらかじめ意思は決められており、自由意思なんてないんだけど、自分の自由意思で決めたと思い込まされている。
細かい、いちいち判断する必要のないことは自動で身体が動いている。でも、何かによってそれを強制されているとは感じない。
強制されていると感じると、反発や疲れを感じる。
昔ぼくはいわゆるアドベンチャー・ゲームについてインタラクティブ「感」が大事だと書いた。本当にインタラクティブでなくて良い。自分の自由なアクションに対してゲームの世界がリアクションを返してくれてると感じられるゲーム。「自由なアクション」というのは錯覚で、実はゲームの作り手が一方的にこちらにシナリオを押しつけてきてる。でもそう感じさせないのが良いゲーム。
他人を動かすにしても、自分を動かすにしても、頭に入れておくべきことだと思った。
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2011/08/14(日) 22:25:09

[続ける方法] 1万時間への道

努力を継続して目標を達成するために重要なポイントが2つあると思います。
1つは「やればできる」ということをとことん理解すること。
もう1つは定期的に刺激を受けてやる気を保つこと。
特に一人でコツコツやるためには工夫しなければならないと思います。

graph.jpg
どうしても、費やした時間に単純に比例して結果が出る、上達すると思ってしまいがちです(上の図の左側の点線)。でも、実際の努力の成果は、幾何級数的なカーブを描きます(同実線)。よって、最初のしばらくの間の我慢が重要です。

そして、最初はやる気満々でも、時間の経過と共にだんだんやる気は落ちていきます。その時、コーチがタイミングを見計らって刺激を与えてくれれば良いんですが、一人でやる場合には、工夫が必要です。リマインダーメールで、やる気が出る言葉を未来の自分宛に送信するのも1つの方法ですが、どうしてもだんだんマンネリ化してしまいます。最初から努力の期限を決めておいて、その期限が来たらまた1からどうするか良く考え直す、というのも1つだと思います。PDCAのCAをあらかじめ予定に組み入れておくのです。

上の2つのグラフは

のうだま―やる気の秘密
上大岡 トメ 池谷 裕二
幻冬舎
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この本に載っています。
努力・勉強・記憶の累積効果については

記憶力を強くする (ブルーバックス)
池谷 裕二
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が参考になります。
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2011/06/25(土) 20:00:56

[続ける方法] ごちゃごちゃ考えてないで、とりあえず始めてみよう! 絶対に失敗するよ!

たしかに、考えてばかりで行動しなければ、成功しません。
しかし、ある程度考えてから行動したところで、絶対に失敗します。

例えば、タバコをやめようとする場合。タバコを吸うこととやめることのメリット・デメリットを考え、やめることにしました。しかし、食後にふと一服したくなる。仕事が終わってオフィスを出るとき、一日がんばったご褒美に吸いたくなる。すごくイヤなことがあったときに、ストレス解消したくなる。そんなことがある度に、吸うべきか吸わないべきか散々迷い、99回誘惑に勝っても、やがてつい「1回だけ」吸ってしまう。罪悪感とか、「1本も2本も同じ」とか、いろいろ考えているうちに、タバコをやめるのをやめてしまう……。

ダイエットを開始して、食事を制限して、運動するんだけど、結果が出ない。「すぐには結果は出ない」と自分に言い聞かせるものの、「今はせっかく美味しいものがあるから食べて、次から我慢しよう」と思っていると、いつまで経っても結果が出ない。ダイエット法が悪いんだと思い、別の方法を探す。他の方法でも、結果の大小はあるけど、同じことの繰り返し……。

なぜこんな風になってしまうのでしょうか。
禁煙失敗歴数十回、ダイエット失敗歴数十回の、この私が解説しましょう。

まず、あなたは大きな勘違いをしています。
あなたは自分の行動を自分で決めていると思っているでしょうが、それは大きな間違いです。
あなたに自由意思などありません。

有名な実験があります。
対象者に「好きなときに手を動かしてください」と伝え、「動かそう」と意図した時間、「動いた」と認知した時間、脳が手を動かすための準備を整えた時間、脳が手を動かす指令を出した時間、それぞれを計測します。
普通に考えると

動かそう→準備→指令→動いた

となりそうです。しかし実際には

準備→動かそう→動いた→指令(→実際に手が動く)

となっています。
つまり、「動かそう」と思う前に、すでに脳は手を動かす準備を終えているのです。脳が自動的に手を動かす準備をし、その後で「動かそう」と思わされる。しかし我々はそれを知らないので、「自分が動かそうと思ったから手が動いた」と思い込んでいます。

これは眉唾な実験じゃありません。他にもいろんな実験結果があって、「自由意思がない」というのはほぼ事実だと私は思います。もっとも、「準備」から実際に手が動くまでには時間があり、その間に「動かさない」ことはできるので「自由否定」はあります。
詳しくは『単純な脳、複雑な「私」』を読んでみてください。

やだやだ! そんなのやだ! ボクは自由なんだ! 自分のことは自分で決めるんだ! 自由意思がないなんてウソに決まってる! ボクはこれまで自分で選択してきたんだ!

はい、そうですね。そう思いたいですね。
でも、違います。もし仮にすべての行動を自分で「意識して」決めなきゃいけないとしたら、「できる」ことをいちいちすべて検討して選択・決断しなければいけません。大変です。無理です。
ほとんどの行動は自動的に決まっています。にもかかわらず、私たちは、自分で自由に選んだつもりになって、満足しているのです。これは悪いことではありません。
私なんかは、人間がまったくできていないので、小さいことですぐにイライラします。電車を降りて、急いでいるのに、駅のホームが混雑していてゆっくりしか歩けないと、周りの人を片っ端から突き倒して進んでやろうかと思ってしまいます。これは、「自分で選べてない」と思うからイライラするのです。
ゲームが、小説や漫画や映画よりもすぐれている点は、「自分で納得して決めている」と思い込むことができる点だと思います(竜王の城を見ろ ~ ともぞうブログ)。
人間が幸せかどうかは、自分の行動を、自分が納得して選び取ったものだと信じられるかどうか、という点に大きく依存していると思っています。

さて、あなたは、禁煙するべきかしないべきかを、そこそこ考えて、禁煙を実行に移したとしましょう。
すると、いろんなタイミングで、タバコが吸いたくなります。

普通の人は、食事を採ると、ドーパミンがドバドバ出て、脳波のアルファ波が増えて、満足します。しかし、ニコチン中毒の人は、ドーパミンを出さなくてもニコチンがアルファ波を増やすので、だんだんドーパミンが出なくなります。ついでに、ノルアドレナリンも減ります。つまり、食事をしてもタバコを吸わない限りアルファ波が増えないので満足できず、ノルアドレナリンが少ないので、いつも不安です。
喫煙者は普通、そんなことを知りません。ただ、

食後にタバコを吸う→満足できる

ということを無意識に学習するだけです。
ハトでさえ

ボタンをつつく→エサが出てくる

ということをあっという間に学習します。
ですから、あなたの脳は、食後には、自動的にタバコを吸う準備を開始します。その後に「タバコを吸いたい」と思います。
しかし、ここで「ボクは自由だ! 自由意思はある!」という勘違いをしていると、「タバコを吸いたい」という気持ちを、「自分の(大事な)感情だ」と思ってしまいます。ところがそれはウソです。
先に「食後にタバコを吸う→満足できる」という学習したデータがあって、それに基づいて脳がタバコを吸う準備を整えて、それから気持ちが作られているだけです。「自分で選び取っている」と思う方が幸福だからです。これまでずっとタバコを吸ってきた自分を愚かだと思いたくないからです。タバコを吸うことを肯定して自己正当化した方が気持ちいいからです。

いまいちスッキリしない方も多いと思うので、また『単純な脳、複雑な「私」』から。ちょっと長いですが引用します。

 ところで、脳梁切断の実験にはまだ続きがあってね、たとえば、右脳に〈笑え〉と示す。するとちゃんと笑ってくれる。ハハハハハ……と。何が表示されたかは把握できていないけど、正しい行動が取れる。笑えるんだ。
 そこで今度のテストでは、「何が表示されたか」という内容を問うのではなくて、その行動の「理由」を尋ねてみる。つまり「どうして笑っているの」と訊くの。すると、「だって、あなたがおもしろいこと言うから」と味わい深い返答をしてくれる。
「笑っている」という今の自分の行為は、もはや事実として否定できないよね。だって、もう笑っちゃってるんだから。その状態で「どうして笑ったか」と問うと、本人は「〈笑え〉とモニターに出たから」という本当の理由に気づいていないから、「笑っている理由」を探し始めるんだ。そして現状に合わせて都合良く説明しちゃう。
 あるいは、〈掻け〉とモニターに示すと、頭をぽりぽり掻くんだけど、どうしてと訊くと、「かゆいから」と説明してくれる。もちろん、かゆいから掻いたんじゃない。でも、「掻いている」という事実を説明する最適な理由は「かゆいから」だよね。
 こんなふうに脳は、現に起きてしまった行動や状態を、自分に納得のいくような形で、うまく理由づけして説明してしまうんだね。
 もっと複雑なテストをやっても似た現象が見られるよ。右脳と左脳に違う単語を表示してみる。たとえば、左脳に〈時計〉、右脳に〈ドライバー〉と見せる。すると、目の前に並べられたものの中から、きちんと「時計」と「ドライバー」を選べる。もちろん、本人には〈時計〉と表示されたことだけが意識にのぼる。左脳だからね。にもかかわらず「ドライバー」も一緒に手に取る。
 そこで理由を尋ねてみる。「なぜ時計とドライバーを持ったのですか」と。するとこんな答えが返ってくる。「〈時計〉という単語がモニターに出ました。だから時計を取りました。でも、時計が止まりそうだったから、電池を交換しようと思ったのです」。立派な答えでしょ。
――ヘンな言い訳(笑)。
 あはは。もちろん本人はまじめに答えているんだよ。こういう実験では、状況が特殊だから滑稽に思えるかもしれないけど、これは僕らが普段やっていることと変わらない。
 ただ、僕らの日常では、理由づけが比較的常識の範囲内に収まっているから、その矛盾に気づけない。だから奇妙に感じないだけの話。実のところ、僕らも常に周囲の状況に合わせてストーリーをでっちあげている――意味の偽造だ。
 こうした無意識の行為を「作話」と言う。僕らの考えていることのかなりの部分はおそらく作話なんだと思う。
 これは、自分の行動がまず先にあって、その行動の起源を常に探しているということだよね。もちろん、はっきりした根拠があって行動をしている場合もあるけれど、よく根拠がわからないまま行動しているときは(そういうケースは意外と多い)、その行動の意味を勝手につくり上げる。そして、当の本人は、それこそが「真の理由」だと心底信じている。
 きっとね、行動や決断に「根拠がない」という状態だと、不安で不安でしょうがなくなっちゃうんだろうね。理由がないと居心地が悪い。だから、いつも脳の内側から一生懸命に自分の「やっていること」、もっと厳密に言えば「やってしまっていること」の意味を必死に探そうとしちゃう。
(中略)
 さて、海馬が損傷されて記憶ができない患者さんでテストすると、やはり作話が見られることがわかる。担当医が来て手を差し出して握手をしたとしよう。この患者は〈握手をした〉という記憶は残らない。何分かで消えちゃう。
 そこで、握手するときに、手に小さな電気ショック機を隠しておいて、握手した相手をビリビリと刺激してみる。イヤなことするよね。そうでなくても海馬に損傷を受けて気の毒な患者さんなのに、その上さらにイジメのようなことをする(笑)。
 不意を突かれて刺激を受けた患者さんは「何をするんですか」と怒るんだけど、でも、やっぱり、数分ですっかり忘れてしまう。
 ところがおもしろいことにね、握手をしたとか、電気刺激されたというイベント(出来事)の記憶は覚えていないのだけど、好きとか嫌いとかいう感情の記憶は残るの。感情の記憶保管は、海馬とは別の脳部位が関係しているのだろうね。こんなふうに、記憶は多重性を持っているんだ。
 さて、その患者さんが再び診察に来たとき、「握手しましょう」と同じ医者が手を差し出すと、患者さんはイヤがる。刺激されたこと自体はまったく記憶にないけれど、でも、とにかく握手はしたくないんだ。
 そこで質問をする。「どうして握手をしてくれないんですか」と。すると患者は「手を洗っていないのです。手が汚れているから握手しては失礼だと思って……」などと答えてくる。つまり、自分の感情の根拠を、自分がアクセスしやすい記憶(ここでは「手を洗っていなかった」という記憶)に落とし込んで、説明をつけてしまう。
 これも事実を知っている僕らから見ると、すごく滑稽に思えるんだけど、やっぱり本人はいたってマジメ。間違った帰属推論に何の疑問もはさまずに真剣に話している。
 もちろん、彼らの言動を笑ってはいけない。僕らも同じように、いつも歪んだ主観経験の中を生きている。単に、その推論に論理的矛盾が生じない限り、「自分はウソをついている」ことに気づかないだけのこと。
――気づけないんですか?
 不幸にして、日常生活の中では、僕らは「自分がウソつきである」ことに気づくチャンスは少ない。だって行動や感情の根拠が不明瞭だからこそ「作話」するわけでしょ。
 そして根拠が不明瞭である以上、裏を返せば、作話した内容が「間違っている」ことを立証することはできないわけだ。だって、真の理由がわからないから作話したんであって、だから、もはや、その「真実」を作話と照合して、検証するなんて叶わない望みだよね。
 そんなわけで僕らは「本当は自分が道化師にすぎない」ことを知らないまま生活している。根拠もないくせに、妙に自分の信念に自信を持って生きている。
 そんな傲慢な僕らは、やはり「人間って生き物は主観経験の原因や根拠を無意識のうちにいつも探索している」という事実を、もっときちんと認識しておくべきなんだろうね。そうすれば、もう少し自分に素直に、あるいは他人に対して謙虚になろうって思えてくるでしょ。


タバコを吸いたくなるのは、単なる「反射」。
エサを出す前に必ずベルを鳴らすようにしておくと、犬は、エサが出なくてもベルが鳴るだけで、よだれを出すようになる。それと同じです。

「気持ち」とか「意思」とか、関係ない。ただの自動的な化学反応。それを、「ストレスが溜まったから吸いたくなった」「自分の気持ちを抑えても幸せになれない」等と「作話」しているだけ。なぜそんなことをするかというと、「自分は自由で、自分の行動を納得して決めている」と思いたいから。これまでずっと自分がタバコを吸ってきたことを「反射」とは思いたくないから。自分で自分の気持ちに従って決めてきたんだと思いたいから。

あらかじめちょっとメリット・デメリットを比較したくらいでは、このメカニズムには勝てません。99回勝っても、1回負ければ終わり、ということも多いです。
タバコを吸いたくなる度にこの葛藤を繰り返していると、苦しくてしようがなくなります。禁煙すると決意したのは自分。タバコを吸いたいと思うのも自分。そう考えていると、毎回迷います。セルフコントロールは消耗資源です(セルフコントロールは消耗資源 ~ ともぞうブログ)。フツーに社会生活を送るだけでもセルフコントロールを消耗するのに、さらに、いつ終わるかわからない戦いを続けなければならない。「1本だけ」と吸ってしまうと、あとで罪悪感にまで苛まれる。不幸になる一方です。そのうえ目標は達成できない。最初からやろうとしない方がマシです(好きな自分でいる方法 ~ ともぞうブログ)。

あまり物事を深く考えない人は、かえって禁煙できます。
自制心が強く、自分が思うとおりに人生を歩んできたというプライドの高い人は、かえって禁煙できません。

では、この強力な「現状維持強制装置」から脱出して自分を変えるには、どうするべきなのでしょうか。
まず、「自由意思なんか、ない」ということをとことん理解することだと思います。
それから、事前にそこそこ考える程度ではまったくダメで、実行する前に、とことん、とことん考え尽くすことが大事だと思っています。
何をどう考えるのかは、また書きたいと思います。

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2011/04/21(木) 06:49:39

[教養] モバゲーかモベイジか(怖いくらい通じるカタカナ英語の法則)

もう、英語のカタカナ表記を、文部科学省が変えて、統一してしまえば良いんじゃないか。

「ビジネス」は「ベゼネス」に。
「アニマル」は「エネモウ」に。
それだけで、日本人の英語能力ははるかに向上するんじゃないか。だって日本人は、全く英語を勉強していない人でも英単語は結構知ってるから、発音さえ通じればかなり自信が持てるはず。
カタカナ表記を変えただけで通じるか? と疑問に思う方は、「英語:カタカナ発音でもいいんじゃないか」とか

怖いくらい通じるカタカナ英語の法則 (ブルーバックス)
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を。

これまでの表記を国がコロッと変えられるか? というのは問題ではありますが、使える漢字さえ結構コロコロ変わってるので(「ら致」とかオカシイだろ)、充分可能だと思います。

そもそも、なんで英語の発音とカタカナ表記がこんなに違ってしまっているかというと、英語の綴りに引きずられてしまってるせいだと思います。日本語をローマ字表記するときのパターンで英語を読んでしまうから。
耳で聞いたら、絶対「アップル」ではなく「アポー」。「チェックイットアウト」ではなく「チェケラッ」。
いやまあ、中井貴一は mobage を「モベイジ」と読むんですけどね。
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2011/01/17(月) 08:56:37

[日記] NTRは絶対に笑ってはいけないか

このブログはわりと真面目な話が多いのですが、今日はどうでもいい話を。

と言いながら、小難しい話をしますが、人間、他人が痛みを感じているのを見ると、自分が痛みを感じたときと同じ脳回路が活動するらしいです。人間に限らず、ネズミでも、同じ巣の仲間の苦痛を理解するのに、痛みの回路を使っているそうな(『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二)。

ちょっと違うかもしれませんが、言い換えると、「他人が痛がっているのを見ると自分も痛くなる」。

たぶんこれを応用してると思うんですが、最近のテレビ番組、やたら出演者が美味しいモノ食べてますよね。派手に「うまい!」とか叫びながら。視聴者も、見てるだけで、なんとなく良い気分になるという計算じゃないでしょうか。

それから、伝える内容は編集されたビデオを流すんだけど、画面の隅っこに四角い枠を作って、そこにビデオを見ている出演者の顔を映す方法(ワイプというらしい)。

何かを表現するときに、その対象自体を描写するんじゃなくて、その対象が周りに与えた影響、もしくは周りの人間のリアクションを描く、というのはある意味基本ではあるんだけど、テレビで出演者がワイプの中で無理に表情作ってるのを見ると、「視聴者をバカにしてるのか」と思いません? 「ビデオのなかみなんか、アンタには理解できないだろう。このビデオを見た人は普通こういう反応をするんだぞ、教えてあげよう」的な意図を感じるのです(感じすぎかもしれません)。単純に、出演者が何か面白いことを言ったときに、録音された笑い声が挿入されるのと同じだとは思うんですが。

みんな(テレビの中の出演者)が面白がってるから、これはおもしろいに違いない、と思いながら見てると、本当に面白く感じてしまう、ということだと思います。

で、「絶対に笑ってはいけない」シリーズでは、笑ったらおしりを叩かれることがわかっているにもかかわらず、出演者は笑ってしまうわけです。それだけ出演者が本当に面白がっている。そして、「他人が面白がっているのを見ると自分も面白くなる」。

ぼくはよく知りませんが、NTRって、気持ち良くなってはいけない状況で気持ち良くなってしまっている人を見て、自分も気持ち良くなってしまう、ということなのかな、と思ったり。

いや、どうでもいいことを長々とすいません(笑)
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2010/09/05(日) 17:20:50

[自己啓発書] 単純な脳、複雑な「私」

 勝間和代の『効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』を、小飼弾は「浪費しない、投資を惜しまない」と要約した。
 断言しよう。私は社会人になってからの10年間というもの、「投資しない、浪費を惜しまない」生活を送ってきた。
 私は、勝間和代のほぼすべての著作、『夢を叶えるゾウ』、スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』、フィリップ・マグロー『史上最強の人生戦略マニュアル』、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」、『金持ち父さん貧乏父さん』、その他数々の自己啓発書を読んできた。
 しかし、それを自分の人生において実践したことなど一度もない。
 はっきり言っておく。おまえらは、他人が書いた、世間で流行っている本を読まなければ、自分の人生さえ送れないのかと。
 私は自分で自分の人生を送る。
 自己啓発書を読むのは、それが戯れ言として面白いからである。私は面白がるために本を読んでいるのであって、実用に役立てようなどという低俗な発想は私にはない。
 したがって、今現在も私は、酒を飲みながらPCに向かい、ブラウザを立ち上げ、検索窓に「dmm」と入力している。
 私は勝間和代と違い、何でもかんでも効率効率と貧乏くさく時間を使うのは大嫌いなので、ブックマークをしてツールバーにリンクを表示させたりするようなことはしない。検索窓に「dmm」と入力する程度の手間は惜しまないのである。もし仮に、私の部屋に女性が来なくなってかなりの歳月が過ぎており、私の PCを女性が使うことなどなくなっていたとしても、この習慣を変えることはない。
 やがて気持ちが高まってきたので、私は椅子から立ち上がり、ティッシュペーパーを取りに部屋の中を移動した。そして少しだけ気持ちを落ち着け、再度モニターの中に神経を集中した。ますます気持ちが高まってくる。その時。
《くぉるぁ!》
 ドスのきいた声で一喝された。
 もちろん、他人のいるところで日本の誇るdmmの優秀なコンテンツを鑑賞しながら気持ちを高める趣味は私にはないので、この部屋には私しかいない。
《オナニーばっかりしやがって。たまには読んだ本に書いてあること実行せえ、バカ》
 どこから声が聞こえてくるのだろう。いや、声じゃないような気がする。ものすごくリアルに、過去の経験を思い出しているときのような。脳に直接、「人がしゃべっている」という情報がインプットされてるような。夢の中で音を聞いているときのような。
《ほんっまに、人間のくせに。本読めるくせに。欲に動かされてるだけやんけ。情けないのう》
 正確に言えば、この部屋には、私の他に、小次郎という名前の犬がいる。昔別れた女が置いていった、ミニチュアダックスフントだ。マンションの室内で飼っているが、吠えたりすることはなく、他の部屋の住民に迷惑はかけていない。散歩に連れて行くと、犬好きはみんなこの犬のことをじっと見る。「かわいい」と言われる確率も相当高い。おとなしくてかわいらしい風を装っているが、実は気にくわないことがあると部屋中に小便を撒き散らして飼い主に抗議する。私がそれを最も嫌がるのを知っているのだ。実に恐ろしく、性格の悪い犬である。
 私は小次郎を見た。小次郎はいつもの上目遣いで私を見ている。
 声が聞こえる。
《人間のくせに、食って寝てオナニーしてるだけか、お前は。犬のオレでさえ、去勢され、食事を制限されることに耐え、身体を鍛え、日々思索にふけっているというのに》
「――お前か?」
 私は問うた。犬の小次郎に。
 小次郎は、私に話しかけれらた時にいつもそうするように、定位置のソファから飛び降り、私の足元にやってきて、私を上目遣いで見ながら、しっぽを振った。
「腹減ったんか?」
 小次郎はますますしっぽを強く振る。
 私の高まった気持ちは、すっかり萎えてしまった。小次郎専用の皿を洗い、ドッグフードを入れる。いつもの場所に皿を置き、「待て」と言ってしばらく動きを止めさせてから「よし」と言って食べるのを許可する。
 小次郎はガツガツと音を立てながらドッグフードを食う。一気に食い終わると、今度は水を、ピチャピチャと盛大に音を立てながら飲む。飲み終わると定位置のソファに飛び乗り、長い胴体をくるりと巻く用にして、ソファの縁に自分の顔を乗せ、目をゆっくりと閉じる。「食った食った。満腹だ」という心の声が聞こえてきそうである。
 小次郎が食事をしている間、先ほど聞こえた、頭の中に直接響いてくるような「声」は聞こえなくなっていた。
 小次郎なのか?
 いつも、こちらの考えを見透かしているかのような表情をする犬ではあった。話しかけたことの意味がわかっているようでもあった。いつかしゃべり始めるのではないかと、半分本気で考えたこともある。
 しかし、なぜオレを罵倒する。
 しかも、偉そうなことを言っておきながら、自分はメシを食って眠れさえすればそれでよいのだろうか。
 ふざけた犬だ。
「おい」
 ソファに寝そべったまま、顔を上がることすらもせず、目だけを半分開けて私の方を見る。
「小次郎!」
 あくびをしやがった。
「お前、明日はオヤツ抜きだ」
 小次郎は起き上がり、ソファから飛び降りた。床に座り込んで、私を見上げた。抗議のポーズだ。
「お前、飼い主に対して、なんであんなこと言うんだ。しかもあんなタイミングで」
《うるさいオッサンやなあ》
 声が、聞こえた。
 小次郎は、相変わらず上目遣いで私を見ている。
《実際その通りやろうが。人間のくせに、欲を何一つコントロールできん。飼われてるワシが情けないわ》
 なんと言うことだ。小次郎がしゃべってる!
《わしゃ、お前さんに飼われとる犬や。自分では、食欲や性欲はコントロールできん。しかし、コントロールした方が良いのはわかっとる。散歩の時に見かける、まともに歩けないほど太ってしまった他の犬のことを考えれば、お前さんがワシの食事をコントロールしてくれてるおかげで、毎度の食事が、例え栄養のことだけしか考えられてない安物のペットフードであろうとも、美味しく感じられる。健康で、ボールを追っかけて走り、身体を動かす楽しみを味わうことができておる。いい加減、もっと良い音が鳴って噛み応えのある新しいボールが欲しいがな》
 小次郎は「しゃべって」いる間、ずっと私の方を見たまま、動かなかった。
《食べるとか、寝るとか、そんな欲求でさえ、コントロールした方が、より食べることや寝ることそのものを楽しむことができる。ましてや人間が、生存とは直接結びついていない欲求をコントロールできず、結果的に不幸になったり、身体を壊したりしているのを見ると、本当にアホじゃないかと思うな》
 しかし、しゃべっている内容は、とても犬のものとは思えない。まして、犬好きが必ず振り返るほど一見かわいらしいミニチュアダックスがしゃべっているとは。
《動物は本能で動いていると思っている人間が多いらしいが、そんなことはない。ちゃんと学習した結果身につけたものによって動いている。まあ、「パブロフの犬」みたいな単純な反射が多いがな。しかし人間だって、似たようなもんだ。お前さんがこの前読んでた『単純な脳、複雑な「私」』に書いてあっただろう。人間の行動が起きる過程の話だ》
 小次郎が言わんとすることはわかった。脳科学者池谷裕二の本には、こう書いてあった。
 人間が行動を起こす場合、まず脳が行動の準備を始める。そして準備が整って、行動を起こすことができるようになってから、「行動を起こそう」という意思、意識が生まれる。これは実験で確かめられている。順番として、「行動を起こそう」という意思が最初ではないのだ。
「行動を起こそう」というのは、自由な意思ではない。脳が先に準備をしてから作っている意識だ。
 自由意思などない。
 ただし、ここから池谷裕二は、重要な、我々にも受け入れやすい事実を教えてくれる。
「行動を起こそう」という意識が生まれたあと、実際に人間が行動を起こすまでには、時間があるのだ。この時間を池谷裕二は「執行猶予」と呼んでいる。この時間に、我々は、その行動を起こさないことができる
 つまり我々は、自由意思で行動の準備を始めるわけではないが、行動の準備ができた後に、その行動を起こさない権利を持っている。
 自由意思はないが、拒否権はあるのだ。
《拒否権を使わないのなら、意識なんかなくて良いのだ。人間のくせに。もっと考えろ》
 小次郎は言った。
《そして、オヤツをくれ》
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2010/07/27(火) 23:26:23

[考えない練習] 「わかっちゃいるけどできない」改善法 ~ 煩悩リセット稽古帖2

『煩悩リセット稽古帖』は、そでの部分に

本書を少し読むと、まるで心理学の本のようだと思われるでしょう。
そう、仏道は、宗教ではなくて、お釈迦さまが見抜いた心理学。
現代に生きる私たちにこそ役に立つ精神トレーニングメソッドなのです。


と書いてあるような本ですが、しかし、第1章のはじめの「業(カルマ)」についての説明が、やや「怪しげな宗教風」に感じられてしまう気がします。
「業(カルマ)は心の中に蓄えられたエネルギー」という最初の記述より、その何ページか後の「私たちを裏から操っている潜在力、それが業(カルマ)です」という表現の方が、まだ受け入れやすいと思います。

この「業(カルマ)」というのは、私は、「反射」だと思っています。
要するに、パブロフの犬です。
身体の条件反射ではなく、脳の、脳内の電気信号とか化学物質の条件反射。

「ふつうの燃料は使うと減りますが、業(カルマ)の煩悩エネルギーは使うと増えるのです」とこの本では書かれていますが、反射の回路が太くなっていく、ということだと私は解釈しています。

同じ反応を繰り返していると、その反応に至る道が、広く通りやすくなっていく。
タバコを吸っているとどんどん吸いたくなり、毎日酒を飲んでいるとどんどん飲みたくなり、食べれば食べるほど食べたくなる。
ネガティブなことばかり考えていると発想がどんどんネガティブになっていく。

以前に書いた(「続ける」小手先の技術に頼らない)ように、『自分がたまらないほど好きになる本』という本に

行動を起こすたびに、その行動の裏にある動機となる感情、姿勢、信念を強化している


と書いてあります。

行動を起こす、あるいは起こさないことによって、我々は毎日、反射のパターン、つまり「自己」を作っているのです。

だから、正しい行動を起こして、それを続ければ、正しいパターンが身につくわけです。

ただし、気をつけないといけないことが一つ。
それは、行動分析学で言う「行動随伴性」の考え方によって、反射は身につくということです。

行動分析学入門 ―ヒトの行動の思いがけない理由 (集英社新書)』という本に、ハトにキーをつつかせる話が載っています。

ハトに、まず赤や緑の光を見せる。緑の光の後にキーをつつくと、エサが出てくる。赤の光の後にキーをつついても、エサは出ない。そうすると、ハトは赤の時はキーをつつかなくなり、緑の時だけつつくようになる。

こうやってキーをつつかせるわけですが、重要なのは、強化すべき行動の後、すぐにエサを出すということです。そうしないと、違う行動を強化してしまう。

ハトでも人間でも、こうやって行動を身につけるので、例えば、トイレの電灯をつける、という行動は、直後に明るくなってトイレが使えるのですぐに身につきますが、電灯を消す、という行動は直後には良い結果が出ないので身につけにくい。

最近私はiPadの「太鼓の達人」で遊んでいます。リズム感全くなしの下手くそですが、やってると、だんだん叩けるようになる。「うまくなってやろう」とか「どうすればうまく叩けるのか」とか、まったく考えていません。でも、やってればうまくなる。それは、自分がiPadをタップした結果が良かったのかどうか、即、画面や音でわかるからだと思います。この「即」が重要。

「行動分析学入門」でも、ハトに行動を教えた際の体験談が載っていて、行動を教える技量によって結果にものすごく差が出るということが書いてあります。

効率よく行動を教える秘訣として「即時強化」「目標は少しずつ引き上げること」「挫折をした際の対処の仕方」の3点が挙げられています。

『煩悩リセット稽古帖』でも

ネコッコの躾をする際には、現行犯で捕らえて教えるのが大切であることは申すまでもないでしょう。
同様に、わたくしたちの心をコントロールしようとするにあたっても、欲望や怒りという煩悩が湧きあがってきたそのときに、現行犯で捕らえるのが肝要です。


と書かれています。

「人間の心には双曲割引という性質があるんだ!」という発見も良いですが、むしろ、人間の行動のほとんどは反射で行われていて、反射は行動随伴性で身についていく、と理解した方が、改善する方法を考えやすいと思います。

池谷裕二が『考えない練習』の対談で言っているように

人間の行動はほとんどが脳の反射によるもので、本当は自由意思なんてないんだ、自由否定しかないんだと言うと、そのことを悲しいととらえる人がとても多くて、逆に私は衝撃を受けたんですけどね。
反射しかないんだったら、その反射を鍛えれば良い、むしろやることが限られて良いじゃないのかなと思うんですが。


と私も思います。

そして自由否定を活用して反射を組み換えるトレーニングについて、『煩悩リセット稽古帖』で

簡単かつ実用的なる新しい仏道実践法を開発いたしました。名づけて「三秒観」。


と書かれている方法。
要するに、心の動きに気づいたら、行動や言葉にしてしまう前に、3秒待つ、というだけのことです。
これで、反射として学習してしまわないようにする。
しかしこの方法、『自分がたまらないほど好きになる本』にもまったく同じ方法が載っていて、「中止法」「拡大法」と名づけられています。
アメリカを代表する心理学者と日本の僧侶、ほとんど同じことを言っています。私の実感としても、正しいです。

「わかっちゃいるけど実行できない」を実行するための訓練法は、今日紹介した本に書いてあると思うのです。

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2010/03/16(火) 06:47:33

[三毒追放] 自分の感情を見よう

池谷裕二の『単純な脳、複雑な「私」』に書いてあるけど、血圧計を使って現在の血圧を知ることさえできれば、血圧を下げることができるようになるらしい。
逆に、血圧計なしで血圧を下げることができるかというと、これは多分無理。

だから、まずフィードバックされるようになることが大事。

ところで、人間って、感情によって行動する。
だから、感情をコントロールできれば行動もコントロールできる。
コントロールするためには、フィードバックがなきゃいけない。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)』に書いてあった、怒らないようにする方法は、簡単(というか、この本、簡単というかそっけないことしか書いてない(^^;)。
自分が怒っているときに「あ、怒ったな」と思うこと。あとは怒らない。それだけ(なんじゃそら、って感じだよなあ……)。
「あ、怒ったな」と思うことがフィードバックで、大事。

ただ、意外と自分の感情に自分で気づいてないことが多いのはたしか。
「なんとなくイヤな感じ」は持ってるけど、自分でその感じを持っていることに気づいてない。まして、その「イヤな感じ」に「怒り」「妬み」「後悔」「罪悪感」「自己否定」という名前をつけるところまでいけてない。
語彙の少ない、あまり国語の勉強をしてない高校生だと、「やばい」「むかつく」「わかる~」「うける」くらいにしか思えない。自分の感情を自分で知る、つまりフィードバックすることができない。
フィードバックできないと、絶対にコントロールできない。

まず、自分を客観的に見ることが大事。自分の今の感情は何だろう? と。そして、その感情を探って、名前をつけて保存。すると次回から、フィードバックできる。
自分の感情を見ないまま、何となくイヤな感じがするから、というだけで、「ストレス解消」という言い訳を使って酒やたばこで麻酔しようとすると、依存する。ぼくの経験談ですが。

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2010/03/10(水) 21:58:26

[キーボード・タイピング] たった一つの冴えたタイピング練習法

タイピングが速くなる方法は、

とにかく間違えないように大量にタイプすること

だと思っています。

タイピングは、意識せずにできなければ意味がない。無意識にやるには、とにかく数多く繰り返すこと。
ただ、完全に同じことを繰り返さないといけないと思っています。
同じことを繰り返すと無意識にできるようになる、というか、無意識に「やってしまう」。
だから、間違った手順を繰り返すと、毎回同じ間違いをする。
ぼくは、実感として、ミスタイプするのは「き」が多くて、これは、「き」を含む何らかのパターンのタイピングを、間違った形で無意識が学習してしまっているのではないかと思います。
タイピングソフトとかで練習すると、つい、指を速く動かそうと意識してしまいますが、そうではなくて、正確に動かすように意識して繰り返すべきだと思います。
すでにある程度タイピングができている人がさらに上達するためには、よく打ち間違えるキーや文字列を特定して、それを正確に打てるように練習するべきなんじゃないでしょうか。

そしていつものようにセルフコントロールの話につなげますw
池谷裕二先生によると、人間には「自由意思」ってものはなくて、あるとしても「自由否定」だけだそうな。
無意識が先に行動を決定してて、それに異を唱える自由だけはあるかも知れないよ、と。

じゃあ、無意識を鍛えれば良いのですが、どうやって鍛えるかというと、同じ行動を何度も何度も繰り返して、「無意識にやってしまう」ようにする。
すでに無意識にやってしまっている間違った行動については、意識して、正確に正しい行動を取って、それをとにかく数多く繰り返す。
難しいですが、丁寧に、根気よくやるしかないと思います。

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2010/02/22(月) 21:49:20

[考えない練習] 考えない練習2

余計なことを考えてしまい、集中できないせいで、すごく色々と悪いことが起こる。それが諸悪の根源と言って良いほどに。
でも、余計なことを考えてしまうのは、もともとの脳の性質なんだよ、と。
だから「考えない練習」をしましょう、という話でした。

でも、本当に考えなくて良いの?
考えるっていうのは人間にしかできない素晴らしいことなんじゃないの?

まず、考えなくちゃいけないことと考えなくて良いことを、ちゃんと分けましょう。
昔と違って、今は、物理的な生命の危機なんてめったになくて、その代わり別のストレスがいっぱいなので、もともとの脳の性質のまま、本能のままに脳を使っていては、幸福感は得られません。

そして、「考えてしまう」のは、自由意思で行っていることではないと認識することが重要です。
気がついたら考えてしまっている、というのは、自分の意思で「考えよう」と思って考えるのとは別だ、というのは直観的に理解できると思います。
でもそれだけの話じゃなくて、そもそも、自由意思なんてものがこの世に存在するのか? という話です。
池谷裕二の『単純な脳、複雑な「私」』という本に、結論に近いことが書いてあって、是非読んでほしいんですが、要するに、自由意思なんてものは、ないのです。
あるのは「自由否定」だけ。

環境が脳の「ゆらぎ」を決めてしまって、それに反応して動いているだけなのに、自分の意思で行動していると勘違いしている。
つまり、ただの「反射」なのに、自由意思だと思っている。
でも、この「反射」のあと、実際に行動するまでの間にはタイムラグがあって、その間に、ぼくらは、反射を否定することができる。
もし自由意思があるとしても、これだけしかない。

「考えてしまう」のは、自由意思じゃなくて、反射。
その反射を否定することが、自由意思。

だからやるべきことは、悪い反射を否定して、良い反射を増やしていくこと。
つまり、余計なことを考えない練習です。

次回、さらに具体的に何をどうすれば良いか、考えます。

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2010/02/21(日) 20:48:58

[考えない練習] 考えない練習1

考えない練習』という本を読みました。
「はじめに」の最初に、いきなりこう書いてあります。

私たちが失敗する原因はすべて、余計な考えごと、とりわけネガティブな考えごとです。



失敗する原因は「すべて」「です」と言い切ってしまっているところが、期待感を抱かせてくれます。

が、しかし。目次を見ると……

第1章 思考という病
第2章 身体と心の操り方
第3章 対談 池谷裕二×小池龍之介

となっており、第2章は「話す」「聞く」「見る」「書く/読む」「食べる」「捨てる」「触れる」「育てる」となっていて、全体のほとんどを占めています。

つまり、考えない練習について詳しく書かれているのです。

最初の一文の断言が、なぜできるかを、もっと詳しく解説して欲しかった。
それなしで、いくら練習法について詳しく書かれても。

もちろん、練習法の中で、なぜ最初の一文が言えるかについても触れられてはいるんですが、練習法の説明が終わってまとめもなしで、いきなりおまけ風の対談、というのはいかがなものかと。

ただ、私の直感は、最初の一文が正しいと告げていますので、ここで考えてみます。

著者はお坊さんなので、どうしても仏教の用語で説明してしまうんですが、それだと私たちにはかえって説得力が落ちてしまう気がします。

まず当たり前の話として、スポーツ等で集中が必要なときに、余計な考えごとをしていると、失敗します。

次に、仕事でも、考えてもしょうがない思考に邪魔されて、効率が落ちているのは、GTDで集中力が増した実感を得たことのある人なら、よくわかると思います。
「この仕事、あとどれくらいで終わるかな。ホントにこの仕事やってて良かったのかな。もっと先にやっとかなきゃいけない仕事があったような気がするな。先週金曜日に課長になんか言われたんだよな……」というのが、余計な考えごとです。そんなことは仕事を始める前に充分考えておくか、課長に言われた時にメモしておけば良かったのです。

それから、何も考えずに作業を始めれば、何ら苦痛を感じることなく終わる作業なのに、ちょっと一呼吸入れたばっかりに、「ああ、めんどくさいなあ。明日まとめてやろうかなあ」と考えてしまって、動けなくなる。

さらに、事前には「セックスしたいしたいしたい」と考えていたはずなのに、終わってみたら、全然満足してない、というか、どうでも良いこと考えながらテキトーなセックスをしてしまっていた、とか。いつも「何か食いたい」と思いながら、実際に食う時にはテレビ見ながら飲み込んでて味を覚えてない、とか。要するに、集中して味わってない。

これらはすべて、脳という器官のヤクザな性質のなせる業なのです。

もともと脳は、生命の危険を避けるため、恐怖や危機感を見逃すまいとしています。
それに対して、幸福感や穏やかな気持ち、五感から来た電気信号の中でも変化のないものは、スルーしてしまうのです。
飢えや性欲は長時間続きますが、味を感じる幸せ、射精感は一瞬で終わります。
食欲や性欲は、それがなければ必死で行動しないから強く、幸せは、ずっとそれに浸っていては危険なので、一瞬で終わります。

そして脳は、五感から来る情報に対して、データベースができあがった(大人になった)後は、割と判断が速くて、「ああ、以前のあのときと同じだな」と、すぐに飽きてしまいます。
逆に、脳内で過去のデータベースを元に作られる、特にネガティブな情報に対しては、「大丈夫かな? 危険じゃないかな?」と、長いこと考え続けちゃうんです。

「一切皆苦」ですな。

「考えない練習」では、五感を研ぎ澄ませて「思考病」を治そうとします。
GTDでは、信頼できる脳外装置に心配事をすべて吐き出すことによって、脳がクリエイティブに働くようにします(GTD ストレスフリー 余計なことを考えない)。
勝間和代も、コンサルティングを依頼されたときに、まず「考える意味があるかどうか、自分が考えることによって価値が出せるかどうか」を考えた、というようなことをどっかで読んだ気がしますw

余計なことを考えないことが重要なのはわかりました。
でも、人間ってもともと余計なことを考えるようにできてるってこともわかりました。
どうすれば良いか、次回もうちょっと考えてみようと思います。

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