セルフコントロール研究所 ~ ともぞうブログ

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2011/08/27(土) 21:39:03

[文章の書き方] 読者はバカなのか

昔、池田信夫が勝間和代の「年収10倍アップ」本について、くだらないとかタイトルがひどいとか書きましたが、それに対して勝間和代が「そんなの、わかっててわざとやってます」的にあっさりやっつけたことがありました。
池田信夫はどうしてこんな恥をかいてしまったのでしょう?
池田さんの発言は、勝間さんに直接自分の感想を述べたのではなくて、第三者に対して、勝間さんの本をけなすことで「おれは賢いんだぞ」と間接的に言おうとしたからではないでしょうか。
池田さんの発言が、どうしても本の内容やタイトルに納得がいかなくて、勝間さんに直接抗議したいがためになされたものであるなら、わかりやすく書けば

「年収10倍アップって書いてるのに、これ読んでも年収10倍アップできへんやん! 詐欺やん!」

となると思います。
ところがこう書いてしまうと自分がバカに見えてしまいます。というか、池田さんはこんなバカじゃないはずです。
つまり、「オレはバカじゃないけど、バカな読者が騙されてしまうだろ! 詐欺だ!」と言っているわけです。
勝間さんは、「誰も本気にはしないだろうけど、これくらい書いとけば気になって本を手にする人もいるんじゃないかな」と思っているわけです。
どっちが読者をバカにしているでしょうか。

「小説の読み方の教科書」を書き、それを伝えていくのがぼくの使命 - ハックルベリーに会いに行く

この記事は、「もしドラ」関係の記事に対して作者が反論してるものです。
これを読んでぼくが思ったのは、こんなことで言い争う必要があるのかな、ということです。

読者が「自分はこう思った」と書けば、作者は反論しようがないと思うのです。
ところが、「自分はこう思った」ではなく「みんなこう思うはずだ、だから作者の書き方は間違ってる」と書いてしまうから、ややこしいのです。
あるいは「一般的な読者はこう思うはずだ、だから作者の書き方は正しい」と書いてしまうから。

職場でも、本人同士がケンカするのは別にどうってことないんだけど、ケンカしてる相手の悪口を第三者に言い始めたり、ケンカ相手への伝言を第三者に頼み始めたりすると、迷惑極まりないですよね。

逆に、伝えるべき相手に、まっすぐに誠実に伝えるべく書かれた文章は、第三者にもたくさんのことが伝わると思うのです(伝えるべきことを伝える努力 ~ ともぞうブログ)。

リアルで他人の陰口言っても後に何も残らないけど、ネットでは残っちゃう。
だから、本来なら誰に対して言うべきことなのか、よく考えないと、後で恥ずかしいかも知れない。
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2011/08/20(土) 20:17:02

[文章の書き方] 伝えるべきことを伝える努力

まず、次の引用をお読みください。

大川小の行方不明者捜索自衛官に勇気を与えた小学生の手紙 (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース

 石巻を襲った津波による最大の悲劇の一つが大川小学校の壊滅だった。石巻市立大川小学校は、児童108人のうち74人が死亡または行方不明となった。学校周辺や校舎内では、自衛隊による必死の不明者捜索が行なわれ、瓦礫や汚泥が取り除かれた。そして震災から約1か月後。

「すいません!」

 4月6日、大川小学校近くの追波川河川運動公園に設けられた宿営地内を歩いていた第14戦車中隊(岡山)の石井宣広3曹は、突如、背後から声を掛けられた。

 その可愛らしい声の主は、ワンピースを着た小さな女の子だった。少女は、振り向いた石井3曹にこう言った。

「これ、読んでください……」

 石井3曹に封筒を渡した少女は、名前も告げずに走り去っていった。少女は、母親と思しき女性の運転する車でやってきて、偶然近くを歩いていた石井3曹に手紙を渡したのである。

 そこには、覚えたてのたどたどしい文字でこう綴られていた。

〈じえいたいさんへ。
 げん気ですか。
 つなみのせいで、大川小学校のわたしの、おともだちがみんな、しんでしまいました。でも、じえいたいさんががんばってくれているので、わたしもがんばります。
 日本をたすけてください。
 いつもおうえんしています。
 じえいたいさんありがとう。
  うみより〉

 石井3曹は込み上げるものを必死で堪えた。

「胸がいっぱいになりました……。あの頃は、発災から1か月が経とうとしており、疲れもたまっていたのですが、あの手紙で、『明日からも頑張るぞ!』と皆、勇気が湧いてきたのです。そして自分たちのやっていることが人々のためになっているんだ、とあらためて認識しました」

 その後、この手紙は第14旅団長・井上武陸将補の陣取る女川の指揮所に届けられ、たちまち各派遣部隊に伝わった。

 井上旅団長は言う。

「手紙を見た時は、もう体中の血が逆流するほどの思いでした。『よし、どんなことがあっても全員を捜し出すぞ!』という思いが漲ってきましたよ。うみちゃんは、どんな思いでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと……」

 少女が自衛隊に寄せた『日本をたすけてください』という切実な祈りに全員が奮い立った。中には、手紙のコピーを手帳に挟んで災害派遣活動に励む隊員もいた。同県利府町の加瀬沼公園に宿営地を設営した北海道の第1高射特科群のある中隊指揮所にも、この手紙のコピーがボードに貼り付けられた。

 東日本大震災から49日目にあたる4月28日、飯野川第二小学校の体育館で、大川小学校の犠牲者の合同慰霊祭が営まれた。祭壇には74の可愛らしい児童の顔写真が並んだ。その中には、いまだ行方不明の6人の児童の写真もあった。

 その間も、第14旅団の隊員たちは、うみちゃんの手紙を胸に、行方不明の児童を捜し続けていたのである。



自衛隊員に感謝してる人は他にもいるはず。
うみちゃんが素晴らしいのは、伝えるべきことを、伝えるべき相手に、まっすぐ、誠実に伝えている点。こんな手紙を書いて、渡すには、本当の、精神の努力が要る。

これに比べたら、まだつきあってない異性へのいわゆる「告白」なんて、ただの私利私欲。
テレビで意見を述べてるコメンテーターは、仕事か、自分を賢く見せたいだけ。
折り鶴がムダだという話が出てくるのは、鶴が、気持ちを込めなくても折れるからじゃないか。実際にどうかはともかく、たとえば大人が、よく事情を呑み込めてない子供に、大量に鶴を折らせることだってできる。

みんな思ってる当たり前のことを、自分のためでなく、伝える努力。

我が身を振り返って、年上の部下がいうこと聞かないからって、ほかの人に愚痴こぼすとか、バカかと。直接相手に、誠意を込めて伝えろよ、と。

――こんな内容を「みんなあまり書いてない切り口だから目立つだろう、俺って良いこと言ってる?」とか思いながら、ブログに書いてるワケですが。
そんなヒマがあったら、親に感謝の言葉の1つも言えよという感じです……。


余談。私は昔、小説をネットで発表していたことがありまして。丁寧な感想をいくつかいただきました。その時の気持ち。もらった人間でないとわからないだろうなあ。感謝。
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2011/04/14(木) 23:57:50

[文章の書き方] 読書感想文は邪悪か

学校で読書感想文を書かされることに対する文句・不満・非難を、よく見かけました。なぜそんなに読書感想文を目の敵にするんだろう、と思います。読書が嫌いになったとか、意味がないとか、特定の感想を強制しているとか、そんな意見が多いようです。
でも、子供は、自分の感情を表現する言葉を持っていません。
テレビのインタビューとかで、何かのイベントに参加した感想を無理矢理言わされている子供は、「楽しかった」くらいしか言葉の選択肢がないです。
読書感想文では、「読む」「書く」両方で言葉が身につきます。
読書感想文をちゃんと書かないから、「サイコー」と「サイテー」しか表現する言葉を持たず、0か1かでしか判断できなくなるのです。放射能の危険性等、複雑なことを複雑なまま理解することができず、危ないか危なくないかの二者択一を感覚で行ってしまう。
さらに、自分の感情をコントロールするには、まず自分の感情に気づくことが必要ですが、感情を表現する言葉を持たないと、「むかつく」か「むかつかない」かしかわからず、キレやすくなってしまいます。
読書感想文に文句を言う人も、昔大人に「テレビを見るとバカになる」と言われて反発していたのではないでしょうか。でも今、世間の流れは、「本を読め」ですよね。大人になって就職してからも、勉強しないと生き残っていけない時代です。
ほとんど仲間内でしかコミュニケーションをとらない学生時代に、雑談として話すには堅すぎることや、口頭では言えない複雑な内容を、文章で先生という他人に対して表現することは、非常に意味があると思います。
たぶん、読書感想文の問題は、教え方の問題や、楽しみであるはずの読書を強制してしまうことで楽しくなくしてしまう「宿題」「勉強」のありかたの問題なのでしょう。
もちろん、大人が読書感想文を書くのも、非常に意味があると思います。共通の話題のない相手でも、同じ本を読んでいれば話が通じますしね。
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2011/03/18(金) 21:18:11

[文章の書き方] そもそも「インプット」ができてると思ってるの?

情報のインプットやアウトプットのやり方について、情報を集めようとしてる人が多いけど、そもそも。
人間が情報を「インプット」したり「アウトプット」したりできるものでしょうか。
むしろ、インプットやアウトプットという言葉は、単なる比喩だと考えた方が良いと思います。それも、あまり良くない比喩だと。

例えば、本を読むとき、私たちは「情報をインプット」できているでしょうか?
私たちがやっていることを、少し正確に分解すると。

文字を見る

文字を、音に変換する(その際、意味を考慮して、音に意味を載せる)

変換された音声を、自分で再生する(声には出さないけど)

となると思います。

つまり、コンピュータみたいに、情報がそのままインプットされているわけではないのです。
自分と外界との壁は、何も通り抜けることができない、と思います。
自分の外側の世界の様子をうかがって、外の世界にあるものに似たものを、自分の内側で作り出しているだけ。
そして自分の内側には、限られた材料しかないので、外の世界のものと完璧に同じコピーを作ることはできません。
逆に考えるともっと実感できるかもしれません。ぼくたちは情報を「アウトプット」できているでしょうか? できていないはずです。外界にあるもの(文字、絵、音声、物質)で、自分の内側にあるものに「似たもの」を作り出しているだけ。それさえもうまくいかず、苦労した経験は、もう、誰でも、みんなあるはずです。思った通りに書け、と言われても書けない。思った通りにしゃべれ、と言われてもしゃべれない。なんとか、思っていることと似たような言葉を選ぶだけ。
インプットも同じで、だから、技術がいるのです。あまり本を読まない人、人の話をちゃんと聞けない人には、インプットの訓練をしてあげなければいけないと思います。
訓練と言っても、本を読む訓練は簡単です。声を出して読めば良いのです。それも、カンタンな本から順番に。いきなり難しい本を読もうとしても、自分の中に材料がないので、読めないはずです。
人の話を聞く訓練は、難しいですね。ぼくも、人の話をちゃんと聞けてるか、と聞かれると自信ないです。ただ、ちゃんと話せてる人も少なくて、正直、ちゃんと聞く価値ないよ、と思ってしまうことが多くて、困りものです。

もうすでにいろんなことができてしまっている勝間和代をマネして、フォトリーディングをマスターしようとするより、まず、カンタンな本を声を出して読むところから始めたらどうでしょうか。急がば戻れ、です。

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2011/01/26(水) 21:18:12

[文章の書き方] 将棋が強くなりたければ詰め将棋をやるべきだ

『行動分析学入門』という本に、研究者が実験のためにハトにキーをつつかせる話が載ってて、思い通りの行動をハトにとらせるための効率のよい方法(「シェイピング」という)について書いてあった。tumblrで引用してわりと好評だった(ともぞうクリップ ?  私ははじめてのシェイピングに2時間40分を要したわけだが、その後研究をつづけ、数十羽のハトをシェイピ...)。

その話の続きで、シェイピングというのは、まず、めざす目標を分解するところから始まると思われる。
ハトはフツー複雑な行動なんてできないから、行動をバラバラに分解して、できるレベルにまで小さくしてやる。
そしてバラバラに分解した行動を、1つずつ、できるようにしてやる。
すると最終的に、複雑な行動もできるようになる。単純な話だけど。

シェイピングでは、目標は少しずつ引きあげ、挫折した場合はすぐに前の段階に戻って、前の段階が完全にできるようになってから再挑戦するのが秘訣だ。

しかし、最初の段階の行動がすごく難しい場合がある。

例えば、将棋。
序盤、打った手が良い手なのか悪い手なのかの評価さえ極めて難しい。
じゃあどうするか。
『行動分析学入門』には、親が子に歯みがきを教える場合が「逆行チェイニング」の例として紹介されているが、私は詰め将棋が「逆行チェイニング」だと思う。
一番最後の段階を、バラバラに分解して、できるようにするのだ。
まず、1手詰め。そして3手詰め。11手詰めとかがすぐできるようになると、そのパターンに持って行くための中盤の打ち方が分かってくるのではないか。

もうひとつ、最初の段階がいちばん難しいのが、文章を書くことだと思う。
ネタを見つけたり、発想したり、構想するのが、いちばん難しい。ネタさえあれば、書ける。
ブログにしても小説にしても、書く能力を上げるためには、すでにある材料を使って、最後の仕上げをする練習をするのが良いと思われる。
将棋と同じで、どういう局面でどういう持ち駒があれば最後まで持って行けるか、が分かれば、ネタを見つけたときにどういう方向性で考えれば良いか、分かるようになるはずだ。

だから、ブログを書くときに、「オリジナルで、自分にしか書けない、みんながあっと驚くような」ネタを探す必要は、最初は、ない。
ありふれたネタで美味しい料理をつくれるようになれば、どんなネタを手に入れれば良いのか、わかるようになるはずだ。

小説も、いきなりオリジナルでこれまで誰も考えたことのなかったものを書こうとすると、まず挫折すると思う。借り物のキャラクターでもストーリーでも良いから、完成させて、達成感を味わいながら、練習していけば、作業の序盤もうまくなるに違いない。
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2010/09/19(日) 20:57:15

[文章の書き方] 一文の長さ

 わかりやすい文章にするなら、できるだけ一文の長さは短いほうがいいのです。

 日本語の文章は、「述語。」で終わります。そして、文が終わるまでは、その文全体の意味は判断できません。つまり、長々と述べてきたことを、最後に「というわけではない。」と締めくくると、途中までの読者の解釈とは逆の結論に、文章全体の意味がなってしまうことがあるわけです(実際には、最後がどういう形になるのか文脈から予測できる場合が多く、また予測できるように書くべきなのですが)。

 一文が長いと、その文の意味の最終的な判断を保留し、たくさんのことを頭の一時的な記憶領域に入れたまま読み進めなければなりません。これではわかりにくいのは当然でしょう。

 一文が長いほうが良い場合というのも、もちろんあります。

(1)複雑なことがらを正確に表現する必要がある場合

 当然ですね。

(2)効果を狙う場合

 一つめは、「わざとわかりにくく書く」場合です。

ぼくはこう思います。

 パソコン通信で、こういう書き込みがあったとします。それに対するレスポンスとして、

たしかにそういう部分はありますが、ぼくはこれこれだと思います。

 と一文を長くして書くのと、

たしかにそういう部分はあります。でもぼくはこれこれだと思います。

 と区切って書くのとでは、印象が少し違うと思います。

 前者は、文全体の言いたいこと(ぼくはこれこれだと思う)に、前半部分の留保がついている分、自分の主張をわかりにくく、弱める効果を持っていると思うのです。
 後者は区切って書かれていますから、一文一文の意味がはっきりしています。そして二つめの文のほうが言いたいところであることが明確なため、主張がわかりやすく、力強いものになっています。

 ぼくの場合、パソコン通信では前者の書き方のほうがどうしても多くなってしまいます。意識していたわけではないのですが、考えてみると、効果を狙っていたんだなと思います。

 もう一つ例を挙げます。長くして「ため」をつくる場合です。

自分が心から愛した男を、はじめて、そして何度も心と身体を重ねあった、ただ一人の男性を、彼女は殺したのだ。

 ためてためて、最後に「オチ」をつける方法です。じらせばじらすほど効果がありますが、「オチ」にインパクトがなければ意味がありませんね。この場合は「殺す」という言葉だからそのままでもOKでしょうが、「惨殺したのだ」とか「ぶっ殺したのだ」とかのほうがいい場合もあるでしょう。もし「殴る」だった場合、そのままではなく「ぶん殴る」にしたほうがいいかも知れません。日本語は最後ですべてが決まってしまいやすいので、複合している動詞が多いのではないかと思います。「置く」ではなく「置いておく」のほうがリズムが良い場合など、よくありますよね。


「文」の集合である「文章」のわかりやすさにも、一文の長さは影響します。「文」は一つの意味上のかたまりであり、それが集まって「文章」になっています。「文」と「文」とのつながりは、接続詞によって表現されたり、それが明確である場合には何も書かれなかったりします。一文の中にいくつも屈折があると、文と文との関係をつかむのは困難になります。

「AだがB。だから、CだがD。」と言われても、「だから」が「BだからC」ということを表すために使われているのか、「BだからD」だということなのか、わかりません。一文が一つの意味のかたまりをはっきりと示すようにしておけば、文と文との関係も、接続詞がどういう意味で使われているのかも、明らかになります。

 構造化プログラミング、例えばC言語の経験のある人には、「文は関数のようなものである」と言えばわかりやすいかもしれません。ひと目でその意味(手続き)がわかるようにつくられたモジュールを組み合わせることで、全体の構造がつかみやすくなります。修正の際にも、順番を入れ替えるなどして全体の構成を変えたり、一部だけを修正して他の部分に影響を与えないようにしたりすることが容易です。

 もちろん、文章の書き方は自由で、多様な構成が認められるべきですが、ここでは「わかりやすさ」を問題にしています。一つの「文」を、一つの意味のかたまりとして、ムダなくすっきりと記述するということは、自分の頭の中のモヤモヤした考えを整理するということでもあります。そうして書いた文を組み合わせることで、複雑な内容を深く考え、わかりやすく伝えることができるのです。


2000年頃「テキストのテキスト7 一文の長さ」として発表した記事です。
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2010/09/19(日) 04:39:45

[文章の書き方] 自分の考えをまとめるための実際の書き方

 いきなり「完成形」で書こうとしていませんか。ごく短い文章ならそれでも書けるでしょうが、少し量のある文章になると、それでは良い文章は書けないはずです。もし書けるなら、ここを読む必要のない、文章の達人です。マンガでも、ひとコマ目から順番にペン入れの終わった完全な状態にしていったりはしないでしょう。全体のネームを書き、不要なコマを削ったり必要なコマを付け足したりしてコマ割りを終わらせ、えんぴつで下書きしてから、ペン入れに入るはずです。人物の顔を下書きする際にも、いきなり目の中から描き始めるのではなく、まず目と鼻の位置を示す十字の線から描きはじめますよね。一般に、完成形と出来上がる過程は逆になっているものです。それを最初から完成形にしようというのが間違っているのです。また、書き始める前に、これから書こうとする内容をしっかり考え、構成を練っておく、などというのも無理な話です。頭の中だけでそれができるのならば、誰も文章を書くのに苦労などしません。実際には、書きながら考え、書いてから考えて、何度も書き直しながら、完成形に近づけてゆくものなのです。「文章の書き方」で書いたとおり

一番重要なのは、「自分の書いたものを読み返し、納得いくまで書き直す」ことです。これがほとんどすべてだと言ってしまってもいい

のです。

 実際の書き方ですが、あとで書き直すことを前提にしているのですから、最初は細かいことを気にする必要はありません。マンガでいう、えんぴつによる下書きと同じです。「この漢字はこれであっていたっけ」「語尾がいつも同じで単調だなあ」「例として上げているこの数値は正確にはどんなだったっけ」などと考えることは、かえって文章の「のり」や「勢い」を損ないます。あとで整えられることは置いておき、まずは自分が書こうとする文章の内容のみに集中するべきです。そうすることによって、自分が本当に書きたかったことが見えてくると思います。

 思いついたことを、とにかくどんどん書いていくのです。脈絡のない、流れの良くない文章になってしまっても構いません。そうしていくうちに一つの事柄について集中して長く書ける部分が出てきたら、それがあなたの本当に書きたかったことである可能性が高いのです。直前に書いた文に刺激を受けて、あるいは前の文を書いているうちに、次の文が思い浮かぶようなら、その部分には「のり」や「勢い」があるはずです。そこをメインにしましょう。あなたが本当に書きたかったことは、それなのですから。

 以上が、「文章を書く目的」で述べた、「考えをまとめるため」の文章の書き方です。と言っても、「こうしなければならない」ということではありません。絵を描くのにも、下書きをする場合としない場合とがあり、また下書きをどの程度詳しくするかという段階もあります。文章を書くのも同じです。いきなりかなり「完成形」に近い形で書く方法もあれば、文の形でなく単語のられつ・箇条書きから始めて文章に近づけていく方法もあります。また、最初は「完成形」を書くつもりがうまくいかず途中から「下書き」に変更する、という書き方でも良いのです。重要なのは、「のり」や「勢い」を出せる、本当に自分の書きたいことを見つけることなのです。それがうまくいったら、「他人に考えを伝えるため」の文章にしていきます。


2000年頃「テキストのテキスト8 実際の書き方(1)」として発表した記事です。

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2010/09/18(土) 10:01:47

[文章の書き方] 必ずわかりやすい文章が書けるシンプルな法則(日本語の「文」の構造と読点)

 ちょっと文法的な話をします。難しいことを書くつもりはありません(難しいことがわからないからではありません、念のため)。文章を書く際に役に立つように、微妙な部分もあえて単純な書き方をします。
 その前に、文法とはいったい何なのでしょう? それは、文章を読む人が、誰でも無意識のうちに従っている読み方のことです。それに従って書いてあれば、誰が読んでもわかりやすくなる、という決まりごとです。
 ぼくたちが「文」を読むときに絶対に逆らえない「決まり」が一つあります。それは

必ず前から後ろへと順番に読む

 ということです。「文」の集まりである「文章」を読む場合には、途中にある「文」から、「文」単位で前に行ったり後ろに行ったりしながら読む人がいるかもしれません。そしてそれでだいたい意味もわかるでしょうが、「文」のなかでは、必ず前から後ろへと順番に読むはずです。
 文を書くときにはこの語順が重要なのです。
 日本語は英語よりもかなり語順に融通が利きます。それだけに、変な順番で言葉を並べてしまうと、ひどく読みにくい文になってしまいます。

ぼくは彼女は彼が死ぬまであの人と別れないと思ってた。

 例えばこの文。頭に思い浮かぶ順番に書いていくと、こういう語順になってしまいがち(注1)です(この例は少し極端かもしれませんが)。

彼が死ぬまで彼女はあの人と別れないとぼくは思ってた。

 これなら意味がわかるでしょう。
 なぜ最初の書き方ではわかりにくかったのか。それは、修飾する言葉と修飾される言葉とのあいだに関係のない言葉が入っていたからです。

修飾する言葉と修飾される言葉はなるべく近づける。

 のが基本です。おっとその前に。もっと重要なことがあります。

日本語では前の言葉が後ろの言葉を修飾する。

 のです。例えば、

彼女はあの人と別れないと彼が死ぬまでぼくは思ってた。

 こういう順番で書いた場合、「彼が死ぬまで」は「ぼくは思ってた」にかかるのであって、「彼女はあの人と別れない」にはかかりません。少しややこしいですが、わかりますか?
 ‥‥わかりましたね。はい、そうです。
 ただし、例外があります。

彼女はあの人と別れない、彼が死ぬまで。

 こう書いた場合、「彼が死ぬまで」は「彼女はあの人と別れない」の後ろにあって、前の「彼女はあの人と別れない」にかかりますね、間違いなく。
 この例では、「彼が死ぬまで」のあとに何も書かれていないので、前にかかるしかない、とすぐにわかります。しかし、重要なのは、

順番を逆にする場合には読点(、(テン))を入れる。

 ということです。上の例では句点(。(マル))でもいいのですが、ここでは「文」の構造について考えていますので、置いておきます。
 それから

長い修飾語ほど前に

 という決まりがあります。

真っ赤なヨダレが出るくらいおいしそうなリンゴ

 こう書いた場合、ヨダレが真っ赤なはずはありませんから(ま、そういう人もいるかもしれませんが)、「真っ赤な」は「リンゴ」にかかります。しかし「真っ赤なヨダレ」まで読んだ時点では意味がわかりません。ですから、

ヨダレが出るくらいおいしそうな真っ赤なリンゴ

 という語順のほうがわかりやすいはずです。

 それでもあえて「真っ赤な」を先に書きたい場合、「順番を逆にする場合には読点(、(テン))を入れる」という決まりに従って

真っ赤な、ヨダレが出るくらいおいしそうなリンゴ

 とすれば、まだわかりやすくなります。
 つまり、日本語は語順にかなり融通が利くのですが、わかりやすい語順というものは存在し、そのままではわかりにくい語順にするときには読点を入れるべきだ、ということです。あとで詳しく述べますが、さらに言うと、それ以外の場合にはなるべく読点を入れないほうがいい、ということになります。
 まとめると、日本語の「文」を読むとき、ぼくたちは

前から順番に、出てくる言葉が後ろのどこにかかるのか気にしながら読んでいき、テンのところで少し立ち止まる。

 ということになります。
 そして、

最後に述語。(注2)

 で、その文が終わったことを認識するのです。
 日本語の基本的な構造はこれだけです。主語や目的語といったものは必要ありません。

述語以外のものは他の部分を修飾している。(注3)

 のです。
 例を挙げてみます。

殺してやる。

 これは日本語の「文」としてしっかりと成り立っています。英語などでは必要な「主語」は、日本語には必要ないのです。

俺が殺してやる。

 こう書いた場合、「俺が」が「殺してやる」を修飾していると考えてください。

俺があいつを殺してやる。

 この場合、「俺が」「あいつを」両方が「殺してやる」にかかっている(を修飾している)ことになります。
 複雑にして、

彼女を心から愛していたこの俺が、あの憎たらしいあいつをいつかきっと苦しめながら殺してやる。

 この場合、「彼女を」「心から」は「愛していた」にかかり、「愛していた」は「この俺が」にかかります。ここまでの部分全体が、「あの憎たらしいあいつを」「いつかきっと」「苦しめながら」と同じく、最後の「殺してやる」にかかります。
 どの部分にもかからないのは最後の述語だけであり、それ以外の言葉はすべて他の言葉にかかっているのです。
 さらに複雑にして、

彼女を心から愛していたこの俺が、悪いことばかりしているあの憎たらしいあいつをいつかきっと苦しめながら殺してやる。

 こういう文章でも同じです。ただ、この場合、「この俺が」のあとのテンに注意が必要です。

彼女を心から愛していたこの俺が悪いことばかりしているあの憎たらしいあいつをいつかきっと苦しめながら殺してやる。

 これでも意味はわかりますが、「この俺が」のあとのところで少し戸惑う人もいるはずです。「この俺が悪いことばかりしている」とつなげて読めてしまうからです。「この俺が悪いことばかりしているはずがないのに俺ばかり目の敵にしているあいつを」と続いているかもしれないのです。
 このテンは、

長い修飾語が二つ以上続いているとき、その境目にテンをうつ。

 という決まりに従っています。
 テンが必要な場合というのは、先程の「逆順」と「長い修飾語」、この二つだけです。それ以外の場合はできるだけテンをうたないほうがいいのです。必要なテンと区別が付きにくくなり、文がわかりにくくなってしまいます。もちろん、必要でないテンをうってはいけない、というわけではありませんが、何でも、多用しすぎると効果は薄くなってしまうものだと考えてください。
 学生時代、教科書の本文のほとんどすべての部分にアンダーラインを引いている友人がいませんでしたか? 下線で強調されていないのは助詞だけになってしまっているような。ああなってしまっては、アンダーラインの意味がないと思うのはぼくだけではないはずです。全部を強調してしまっては、どこも強調していないのと同じです。
 文法的な話と言っても、だいたいこれだけです。文を書き直す際に、上記のことを意識していれば、かなり効率よくわかりやすく書けるようになるはずです。


注1

 話し言葉は、文字で書く文章とはかなり語順が違います。頭に思い浮かんだことから順番に話していっても、その場の状況、口調、身振り手振り、イントネーションなどから意味がわかるからです。
 たとえば

「フロントの人が隣のレストランで朝飯をどうぞって言ってます」

 という語順よりも

「朝飯、隣のレストランでどうぞ、ってフロントの人が」

 というような言い方をすることのほうが多かったりします。小説等でセリフを書く際など、テンを使って、書き言葉とは順番をあえて逆にして自然に見せる、という方法が有効です。ちなみにぼくは、日記や雑文を書いていて堅苦しくなるのがいやな場合、話し言葉に近づけるためにこの方法を使うことがあります。
 書き言葉でも、チャットの場合、

 いや、おもしろいんだって>同級生2

 というように、頭に思い浮かぶ順番に書いていくことが多いはずです。ただ、それだと意味がわかりにくくなることがありますので、「>」や「<」のような記号が多用されるようになったのでしょう。

注2

「体言止め」など例外もありますが、文章を書く際に気にする必要はありませんので、ここでは考えません。

注3

 接続詞や感動詞など、微妙なものもありますが、それらについて考えても文章を書く際に便利になるわけではありませんので、ここでは気にしないことにします。


2000年頃「テキストのテキスト5 日本語の文の構造と読点」として発表した記事です。
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2010/09/16(木) 22:43:24

[文章の書き方] 「文章の書き方」を語る資格

 本題に入る前に、ちょっと寄り道をしましょう。
 ぼく(この文章の書き手)に「文章の書き方」を語る資格があるのか? という問題があります。
 ‥‥いえ、そんな問題は存在しないのです。
 文章で書かれた「文章の書き方」が現にそこに存在するのですから、その内容と文章から、役に立つかどうかを読者自身が判断して、自分に必要なところだけを参考にすればいいのです。
「自分には文章の書き方を語る資格がある」と書かれているだけで素直にそれを信じてしまう人は、普段から詐欺師に騙されないように注意したほうがいいでしょう(笑)
 ですが、市販されている「文章の書き方」の本には、この「語る資格」について触れている本がたくさんあります。おもしろいのでその理由をちょっと分析してみますが、簡単にいうと、書き手が恥ずかしいからでしょう。実際、ぼくも恥ずかしいです(笑) 「お前みたいなヤツが何をエラそうに」。そう言われたら返す言葉がないのです。
 しかし、自分の書いたものが役に立ったりおもしろかったりする可能性がほんの少しでもある限り、発表するべきだとぼくは思います。「恥ずかしい」などというのは書き手の都合にすぎません。

(1)実績

 極端なのが、D.R.クーンツの「ベストセラー小説の書き方」でしょう。大学で研究されているものや学者に評価されているものではなく、「売れているもの」こそがすばらしいものだと主張し、自分の書いた本がどのくらい売れているか、数字を挙げています。さすがクーンツ、というか、すさまじい力技です (笑) 反論できませんね。しかし、それだけで「自分には『語る資格』がある」と言っているわけではありません。ここが「ベストセラー‥‥」のすばらしいところだと思うのですが、クーンツはこう言っています。

 わたしはこの本を買ってくれた読者諸氏に、損をさせはしないことを約束しよう。わたしは金儲けを目的にこの本を書いたわけではない。わたしの受け取るお金は、同じ時間と労力を注いでわたしが別の小説を書いた場合の2,3パーセントにしかならないだろう。この本を書いたことは、わたしにとっては経済的に言えば愚の骨頂といえるものなのである。
 しかし、わたしは金儲けのためにものを書くのではない。それは誰にしたって同じだろう。わたしは楽しみを与えるために書いている。痛みと恐怖と残虐な行為でいっぱいのこの世界に、数時間の逃避と数分間の喜びや忘却を提供できるとすれば、すばらしいことではないだろうか。わたしは自己満足のために書くので、自分はそうでないと言いきるような作家はうそつきだと思っている。わたしは死ぬことが恐いから書く。もしかしたら、可能性はほんの少しだが、わたしの作品のどれかがわたしの死後も生きのびるかもしれないのだから。そうすれば、死をくじくことにもなる。
 わたしの考え、感情、希望、夢を伝えるためにもわたしは書く。ひとりぼっちのおびえた人々すべてに手をさしのべて、心の底では私たちは一人ひとり皆同じであることを知らせることも、作家の役目なのだ。無条件で互いに愛し合うべきだということではなく、例外なく誰にも好意を持てなどというつもりもない。つまるところ、まわりには退屈な人、間抜けなやつ、まったくの悪党などがいるものだ。が、皆ひとりぼっちでおびえているのにかわりはない。彼らもわたしたちと同じ苦しみや喜びを共有しているのだ。わたしたちは共通の運命の下にいるのにすぎない。
「わたしはひとりぼっちじゃない。わたしには恐いものなんか何もない」という人があったら、その人は自分自身をあざむいている。われわれはすべて孤独で恐怖に駆られているのだ。たとえ男の中の男というような人物にしても、また幸運にも結婚して愛し合っている人々にしても、心の奥底で、宇宙の虚無を無意識に感じとるとき、恐怖にかられるのである。ふだん、われわれはこの恐怖を自分自身にも隠している。全宇宙における自分の存在を問いつめてゆくと、広大な浜辺の砂粒よりも小さく、力ないものに思えて、ただもう耐えられなく、自滅的になってしまうものだ。だから、わたしたちは冗談を言い、大笑いし、目の前の出来事で気を紛らわせようとする。わたしたちが物語を読むのは、読むことで皆が一体になれるからであり、また神(あるいは生物学的な偶然)がわたしたちに与えた短い人生だけでなく、もっと多くの人生を味わうことができるからである。
 閑話休題。たった一人か二人の読者のためでもいい。君らがしっかりした技術を大切にする、すぐれた本職の作家となるためのはげみに本書がなるなら、これを書き上げるためにわたしの費やした時間は、価値ある時間となるだろう。


「損をさせはしないことを約束しよう」というのは恐ろしいハッタリですが(笑)、少なくとも金儲けのために書いているわけではない、と主張しています。日本人は自分のプレゼントを「つまらないものですが」と言って差し出すのが好きですが、ぼくはあまり好きではありません。ハッタリをかませ、とまでは言いませんが、胸を張って出せるように精一杯の努力はするべきでしょう。「これは手抜きです」と言われたものを読む気には、少なくともぼくはなれません。
「恥ずかしさ」を何とかする方法としては、「恥ずかしい」と思えなくなるくらいまで努力する、という正攻法だと思います。どんな場合でもそれができれば理想なんですけどね‥‥。
「ベストセラー‥‥」は、小説の書き方の本ですが、クーンツの書いたものなので、まず読者を楽しませることを意図して書かれています。読み物として非常におもしろいので、役に立つかどうかは人それぞれでしょうが、おすすめします。

(2)経験

(1)の「実績」とほとんど同じです。厳しくチェックされる新聞の記事を書いてきたとか、「文章修行」を何十年やってきたとか述べるパターンです。その結果得られたノウハウを公開する、というのは説得力がありますが、あんまりくどくどとそればかり書いているような本は要注意です。読者に安心感を与える効果はあるかもしれませんが、たいしたことを書いてないのにまるですばらしく役に立つかのように読者を騙している(書き手にその意識はなくても結果的にそうなっている)可能性があります。

(3)多少は論理的な言い訳

 いい文章を書ける人がいい「文章の書き方」を書けるわけではない、という主張をしている本もあります。それはたしかにそうです。実際、有名な小説家の書いた「文章の書き方」で、役に立たない、退屈な代物もたくさん存在します。しかし、だからといって、文章がうまいことで有名だというわけではない書き手が、「文章の書き方」を語る資格がある、ということにはなりません。いい「文章の書き方」を書けるなら、いい文章も書けるはずで、結局読者は書かれているものから自分で正当性を判断するしかないのです。まあ、書き手としては、ちょっとした予防線を張ることで気恥ずかしさを消そうとしているのでしょうね。

(4)ごまかし

 なんだかよく意味のわからないことを書いて読者を煙に巻き、結局「自分に資格があるかどうか」という問題をうやむやにしてしまうパターンです。こういうことを書く人は気分だけで文章を書いている場合が多く、非論理的で、どんな人にも役に立つ「文章の書き方」は書けない、とぼくは判断します。役に立つ部分も所々には出てくるかもしれませんので、結局自分で判断するしかないのですが。
 余談ですが、「言い訳になってない言い訳」ってよくありますよね。「どうして政治に興味がないんですか?」と訊かれた女子高生が「あたしぃ、そういうのって興味ない人だからぁ」とか答えるアレです。それ、言い訳のつもり? って言うか、それは答えになってないぞ(笑)

 結論としては、こう言うしかありません。ぼく(この文章の書き手)の書く「文章の書き方」は、あなたのプラスになる場合もマイナスになる場合も毒にも薬にもならない場合もあります、と。
 もちろん、できるだけ役に立つように書きますし、役には立たなくても、どんな意味ででもいいですから読み物としておもしろければいいなと思います。


2000年頃に「テキストのテキスト3 文章の書き方を語る資格」として発表した記事です。
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2010/09/15(水) 23:31:01

[文章の書き方] 表現は勇気

作家鈴木光司さん曰く表現する事は勇気を持つ事。花は美しいというと「美しくない花もある」という人が出てくる。そのクレームを想定し「美しい花もあるが美しくない花もある」と書く。それはもはや言う必要のない文となる。全ての人が納得する文では表現にならない。勇気が必要なんだ。力をもらった。


Twitter / 牧野克彦(SBSアナウンサー) / makinoana (2010/06/07 20:41:22)


もし表現したことに間違いがあったら?
間違いがないようにあらかじめ考えて、調べておかなくてはならない。
でも、科学って、実は仮説。反証があったときに、その仮説を修正するか捨てるかするのが科学。
そもそも反証ができなかったり、反証されても修正しないのが、ホメオパシー。
だから、間違いを恐れなくて良い。
みんなで考えていけるのが、ネットの良いところ。

文章の書き方としては、反論の余地があることを認識しながらもそれには触れない、あるいはあえて反論を誘う(いわゆる「釣り」)とか、架空の人物どうしの会話として書いて、漫才みたいに一人を暴走させてもう一人にツッコミを入れさせるとかの方法がありますが、いずれにしても、自分の考えがまとまっていることが前提です。

自分の考えをまとめながら書く時には、一文を短くして言い切ってしまうのが良いと思います。
特に、文章を書いているうちに何を言いたかったのか自分でわからなくなってしまう、という人がよくいますが、そういう人は、「美しい花もあるが美しくない花もある」と書いてしまっていることが多いのです。そう書いてしまうと、それ以上自分の中でも話が発展しませんし、そもそもなぜ自分が文章を書き始めたのかわからなくなってしまうのです。
ですから、間違っていても良いから短く言い切る文章を書いて、それにツッコミを入れながら考えていくのが良いでしょう。
そして、一文につき一つの意味を持たせて、最小の単位として扱うことで、頭が整理でき、「文章」が書けるようになると思います。


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2010/09/14(火) 22:45:31

[文章の書き方] 「文章」の構造と接続詞

 長い文章を書き慣れていない人に多いのが、「書いているうちに自分で何を言いたかったのかわからなくなってしまった」という状態です。書いていてそういう状態に陥りそうだなと思ったら、いったん「他人に考えを伝える」ことは置いておき、「自分が考えをまとめる」ために書くことに徹するべきです。
 その際に注意すべきことは、接続詞の使い方です。
 文章を書く際に、たいていの人は、思いつくことから順番に書いていくと思います。そうすると、自分の書いた文に刺激されて、新しく書きたいことが頭のなかで閃きます。そしてその新しく閃いたことを、また思いつくままに書いていく。こうして書いていくことで、「自分が考えをまとめる」ことができるはずなのですが、「何を言いたかったかのかわからなくなってしまう」のは、接続詞の使い方が誤っているか、不要な接続詞を使ってしまっているせいであることが多いのです。
 ここで「文章」を定義してみます。「文章」とは「文」の集まりです。「文」とは句点(。(マル))の次の文字から次の句点までのことを指します。
「文」は一つの意味の固まりを持っています。その「文」が集まって「文章」になっているのです。「文」と「文」とがどういう関係にあるのかを表すのが接続詞です。
 頭のなかにあることを順番に書いていくと、例えばこんな風になります。
 最初に一番言いたいこと(A)を書く。その文を書いているうちに自分で反論(B)を思いついて、「しかし」でつなげる。さらに、その反論には欠点があることに気づき、「でも」でつないでそれ(C)を書く。ここで一休みして、これまで自分が書いたものを読み返し、何か言い足りないような気分になって、本来言いたかったことを補強(D)する。しかしその補強の材料には留保(E)がついてしまう。さらに、書いている途中に連想によって主題とは関係のない文(F)が入り込む。
 こうして書かれた文章は、結局、「AしかしBでもC。AといえばF。Dという材料でAは補強される。ただしDはEということがあるのであまり強くいえない」というような文章になってしまいます。いや、こうなっていればむしろわかりやすいほうで、実際には、BがAへの反論になっていることや、EがDへの留保になっていることに気づかずに、誤った接続詞を使って、ただなんとなくつなぐことになってしまっている場合が多いのです。
 このままでは、「他人に考えを伝える」ことはもちろん、「自分で考えをまとめる」こともできません。
 まず、接続詞の使い方は正しいか、不要な接続詞を使ってしまっていないかどうか、自分でチェックしてみてください。そして正しい接続詞を使って書き直してみてください。この作業をやっているうちに、「文」と「文」との関係が把握でき、自分が何を表現したかったのか、自分でわかってくるはずです。すこし大変な作業かもしれませんが、慣れてしまえば、最初から正確な接続詞の使い方ができるようになり、さらには長い文章でも書き直しなしで書けるようになります。
 次に、順番を入れ替えることを考えます。先程の例で言えば、「Bとよく言われるけれども、それにはCと言う欠点があり、だからAである。Eというような場合があるとはいえ、Dなのであって、このことからもAということは間違いなく言える」というように、よりよく書き直すことができます。ここまで自分で書き直すことができた文章なら、「自分で何がいいたいかわからない」ということはないはずですし、「他人に考えを伝える」こともできるでしょう。
 ここでもう一つ注意すべきなのは、文章で他人に伝えられることというのは限られている、ということです。自分が思っていることの何分の一かでも伝われば大成功なのであって、とにかく一度ですべてを伝えようとしてしまわないことです。言いたいことを絞って、それだけをしっかりと伝えられるようにするべきです。同時に思いついた他のことは別の機会に譲るほうが、一番重要なことをはっきりさせられます。「もったいない」と何もかも詰め込まないで、ざっくり削ってしまうことも必要なのです。Fは別の文章にして、それだけでおもしろくなるように仕立てあげればよいのです。
 とにかく接続詞は重要なので、間違った使い方をしていないかどうか、曖昧な使い方になっていないかどうか、本当にその接続詞は必要なのか、効果的なのか、ふだんから意識して書くようにしてみてください。しばらく続けていれば確実に、わかりやすい文章を書けるようになります。


2000年頃に「テキストのテキスト4 文章の構造と接続詞」として発表した記事です。
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2010/09/13(月) 21:40:18

[文章の書き方] 文章を書く目的

 文章を書く目的を、二つに分類してみます。
 一つは、「考えをまとめるため」、もう一つは「他人に考えを伝えるため」です。
 人間は物事を考えるのに、言葉(記号)を使います。そして自分がつくりだした文章(記号の集合)をみて刺激を受け、さらに言葉を重ねてゆきます。こうい う、いわゆる「対話法」で人間は思考しているのです。モヤモヤした自分の考えが、文章にしてみることですっきりする、というのはよくあることだと思います。
 もっとも、「考えをまとめるため」に文章を書く、というのは、未来の自分という「他人」に考えを伝えているわけですから、この二つを厳密に区別すること はできません。が、自分と他人とでは、その文章を理解するために必要とする知識に大きな差があります。また、自分の書いたものを読むときには書き手と読み手が一致しますから、書き手の意図を読み手が最初から知ってしまっている、という問題があります。
 大事なことは、「読み手を意識する」ということです。仲間内での文章のやりとりやチャットではすらすらとキーをタイプできても、WEBページの文章、小説や評論のような文章は書きにくい、というのはよくあることだと思います。誰に対して書いているのか、そのイメージを持たなければ書けないはずです。
 さて、この文章は誰に対して書いているのでしょう? 主に、「いい文章を書きたい」と思っている人に対して、ですが、なんとなくここを読んでしまった人をも意識しています。「文章の書き方」では「とにかく読み返し、書き直してください」と述べました。このカテゴリの他の文章では、読み返し、書き直す際に注意すべき点を述べます。必死に「いい文章を書きたい」と思っているわけではない人にも気軽に読んでもらえるように、文章自体で楽しんでもらえるように、書いていくつもりです。


2000年頃に「テキストのテキスト2 目的」として発表していた記事です。
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2010/09/13(月) 07:13:03

[文章の書き方] こだわり

 彼は学校に向かっていった。

 この文は、あまり深く考えなければ、三つくらいの意味にとれると思う。
「彼は学校に向かって行った」と「彼は学校に向かって言った」、そして、「向かっていく」を抽象的にとって、「対抗する」とか「対決する姿勢をみせる」とかいう意味。

 彼女はいった。

 この文なら、「彼女は言った」「彼女は行った」「彼女は逝った」「彼女はイった」(笑)くらいが、すぐに思いつく。

 書く際の効率を考えれば、「いった」をそのままひらがなに変換するようにしておくのがいちばん良い。
 いくつかの候補から最適の漢字を使った表現を選び出すことは、さほど手間ではない。が、それ以前に、「選ぶ」つもりで書くのと「選ばない」のつもりで書くのとでは、書いているときの意識の働きかたが全然ちがう。最初から「選ばない」つもりで書くほうが、はるかに速く書けるのだ。まず書き上げてから手直しする、というのは非常に面倒な作業だ。どれも「いった」になっていて、検索ができないから。
 では、読むときはどうだろう。「彼女はいった」で、すぐに意味は通じる。この文だけが独立して置かれている場合には少しとまどうが、そんなことはあまりない。たいていは文脈というものが意味をとる手助けをしてくれるからだ。
 それでもぼくは、「言った」「行った」「逝った」「イった」と書きたい。

 世間には文章があふれている。新聞・雑誌やパソコンソフトのマニュアルだけでなく、パソコン通信やインターネットからでも、いくらでも手に入るし、向こうから飛び込んでくるし、読まなければならない場合もたくさん起こる。しかも、読んでしまわない限り、どういう文章が書かれているかはわからないのだ。
 読んでおきたい文章が限りなくたくさんあるとき、ほんの少しでも思考を中断させられたくない。余計なストレスを感じたくない。
 また、多くの人が読む文章の場合、書く際の手間と、読む際の手間とでは、読む際の手間のほうが省かれるべきだと思う。ほんの少し引っかかる場所があるだけでも、読み手全員のことを考えれば、書き手の手間の方が、(人数×手間)の値は小さくなるはずだからだ。
 そして書き手としても、ライバルが数限りなくいる状態で、しかもぼくのような特別な才能のない書き手としては、そういう細かい配慮で勝負するしかない。
 だからぼくは「言った」と書きたいのである。「おまえの文章を読んでるヤツなんていないよ」と言われれば、その通り。「そんなのたいした違いじゃない。もっと重要なことがあるはずだ」と言われても、その通り。しかしこれは、ぼくの好みとこだわりの問題なのである。カッコをつけた言い方をすれば、美学の問題である。上記はそれを正当化するためにあとで付け加えた論理にすぎない。


1997年6月22日に発表した文章です。
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2010/09/05(日) 17:45:33

[文章の書き方] 文章の書き方

 一番重要なのは、「自分の書いたものを読み返し、納得いくまで書き直す」ことです。これがほとんどすべてだと言ってしまってもいいでしょう。
「いい文章を書きたい」と思ってこのページを読んでくださってる方には言うまでもないことです。自分で読み直すだけでは気づきにくい部分が問題であり、書き直す際に効率よく作業が行えるようにすることが目的です。
 しかし、それでもあえて強調します。とにかく読み返し、書き直してください、と。
「よく意味のわからない文章ですいません」とか「乱文失礼します」とか書かれた文章をよく目にします。その一行を書くくらいならもっとちゃんと書いてくだ さい、とぼくは言いたくなります。いえ、たいていの場合は、そんなにひどい文章じゃないんだから気にしなくていいのにな、と思うだけなのです。しかし、本当にまったく意味のわからない場合もあるのです。そんな文章は読まずに済ませられればいいのですが、実際には読まないわけにいかない場合があります。おも しろそうな内容が書いてあることはわかるのに、肝心の文章の意味がわからない場合もあります。
 ほんのちょっと自分の書いたものを読み返して書き直してくれれば、そんなに怖がったり恥ずかしがったりしなくていいのだし、こちらもすぐに意味がわかるのにな。そう思うことが結構あるのです。


2000年頃に「テキストのテキスト1 いきなり核心」として発表していた記事です。
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