セルフコントロール研究所 ~ ともぞうブログ

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2010/09/22(水) 22:19:40

[ダイエット] 体重を気にするなら冷静に考えるべき2つのこと

1 本当に炭水化物を減らさなければならないのか?


まず、人間の個人差がいかにすさまじいものか、ギャル曽根の食いっぷりと共に思い出しておいてください。
それから、炭水化物を減らさなければならない人は、たしかにいると思います。
私が『脂肪を燃やすトレーニング―体験的マフェトン理論 (宝島社新書) 』で読んだ「マフェトン理論」では、「炭水化物不耐症」という言葉が使われていました。
炭水化物をうまく処理できなくなった状態のことです。
そういう人は、2週間炭水化物を完全に断ってみると体調が良くなるので、以後は少しずつ炭水化物の量を増やしていって、その人が耐えうる炭水化物の量の限界を調べると良い、という内容でした。

「炭水化物不耐症」や糖尿病でない人は、ダイエットのために炭水化物を減らすべきなのでしょうか?
ぼくはノーだと思います。
なぜなら、脂肪はほぼ無限に身体に貯めておくことができる(し、実際たくさん貯まっている)が、糖質(≒炭水化物)は一定量(約2000kcal分)しか体内に保管できないから。
そして脳のエネルギーとなるのは基本的には糖質だけ。
筋肉中の糖質が足りないと、急に動いたり、スパートしたりすることができない。なぜなら、運動する時のエネルギーとして、糖質も脂肪も両方使われるが、糖質は新聞紙のように燃えやすく、脂質は薪のように燃え続ける。だから、動き始めや運動量が変化するときには一瞬で着火する糖質が不可欠。糖質が不足している状態は疲れた状態で、運動量が落ちてしまう。
糖質のうち1500kcal分は筋肉中に、残り500kcal分は肝臓に蓄えられている。肝臓に蓄えられている糖質は、血液中の糖質が足りなくなると放出されて、血糖値を上げる。
脳のエネルギーとなるのは血液中の糖質なので、肝臓の糖質が足りず血糖値が上がらないと、ボーッとしたり、やる気がなくなったり、イライラしたりする。
そして、糖質の保管場所として、筋肉と肝臓とでは筋肉が優先される。だから、筋肉中の糖質が足りないと、肝臓から筋肉に糖質が移動し、血糖値を上げる糖質もなくなり、脳のエネルギーが不足する。ダイエットどころでなくなってしまう。

さらに、糖質の少ない食事イコール脂肪の多い食事です。
糖質が1gあたり4kcalであるのに対して脂質は1gあたり 9kcalで、脂肪の多い食事は、同じ量で効率的にカロリーを摂取できてしまう。
糖質を減らした分たんぱく質を取るなら良さそうですが、実際には高タンパク低脂肪な食品って少なくて、普通の牛肉や豚肉では脂肪の方が多くなります。ちゃんと調べて、例えば鳥のササミとかを食べないといけない。
パンと米では、米は炊いただけで食えるので油の入り込む余地がないのに対し、たいていのパンは油を使ってるのですごくカロリーが高い。パスタにしても味をつけるのにたいてい油を使う。そして米の方が腹持ちが良い(当然、チャーハンだと高カロリーになりますが)。

それでは、なぜ炭水化物を真っ先に減らすべきだと一般に思われているのでしょうか?

炭水化物を減らすと、筋肉中の糖質がなくなる。糖質は水に溶けた状態でしか体内に保管出来ない。糖質がなくなると、水分が身体から抜けてしまう。すると、数キロ体重が減る。
一方、脂肪を減らしても、なかなか体重には反映しない。
摂取する脂肪は1gあたり9kcalと言われてるが、体脂肪1gは7kcalの消費でなくなると言われてる。
体脂肪1kgを減らすためには7000kcal消費しなければならない。
一方、体内の糖質1000kcalを減らすと体重が数キロ減る。
即効性があるのである。
しかしもちろん、糖質を減らすのにはすぐに限界がくる。そもそも糖質は体内に2000kcal分程度しかないからだ。使い切ってしまったら、それ以上体重が減らない。
その上、先に述べたような糖質不足の弊害が出てくるので、いわゆるリバウンドをするのだ。

そして次に、もう一つ冷静に考えるべき点。

2 毎日の体重変化の要因は何か?


毎日の体重変化の要因は

その日一日に身体に入れたものの重さ(飲食物)
その日一日に身体から出したものの重さ(汗・小便・大便)

以上である。
呼気中の水蒸気もあるかもしれないが、体重計で量れるほどの重さはないはず。
なのに、運動したあとに体重を測って「減ってない」と言ったりする。
水やカロリーゼロの飲みものをガブガブ飲んで、「体重が増えてる」と言ったりする。
当たり前。そんなにすぐに汗や小便で出ない。

一日の体重変化の最大要因は、水分の摂取量。体重計では脂肪が増えたか減ったかはわからない。体脂肪率を測定してくれる体重計もあるが、あれも身体に微弱電流を流して測定しており、体内の水分量で大きく数値がかわる。どころか、体表にくっついている水分量でも変わるので、例えば入浴前と入浴後では体脂肪率が何パーセントも(脂肪の重さにすると1kgとか)変わってしまう。

結局、体脂肪は少しずつしか減らないのに、体重は毎日、水分摂取量や、筋肉中の糖質が減ることによる水分の排出量等によって大きく変化する。
だからあまり体重を気にしてはいけない。
そして、繰り返すが、ギャル曽根の食っている姿を思いだそう。

水分量の上下による体重変化を気にしても意味がない、ということなんですが、ただ、だからといって、水分をたくさん取った方が代謝がよくなるからいい、というのは、自分の個人的経験から、違うような気がしてます。

「朝だけしょうが紅茶」ダイエット 7日間、体を温めて水を出す (PHP文庫) 』の先生が言ってるように、体温が低くて太ってるヒトは水太りで、水分が多すぎるために体温が上がらず酵素が働かず代謝が悪くなるのでは、と私も思います。

体内に入れることより、出すことを先に考えて、しょうが紅茶を飲むか、入浴するか、運動して汗をかいて水分を出して、それから少しずつ水を飲んだ方が良い気がします。

せっかくがんばってダイエットをしようとして毎日体重を量っているのに、上記のことを知らないと、体重計の数字の変化の意味を誤解してしまいます。
そしてダイエットをやめてしまったり、リバウンドを繰り返してやせにくい体質になってしまったりすると思うのです。
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2010/09/19(日) 20:57:15

[文章の書き方] 一文の長さ

 わかりやすい文章にするなら、できるだけ一文の長さは短いほうがいいのです。

 日本語の文章は、「述語。」で終わります。そして、文が終わるまでは、その文全体の意味は判断できません。つまり、長々と述べてきたことを、最後に「というわけではない。」と締めくくると、途中までの読者の解釈とは逆の結論に、文章全体の意味がなってしまうことがあるわけです(実際には、最後がどういう形になるのか文脈から予測できる場合が多く、また予測できるように書くべきなのですが)。

 一文が長いと、その文の意味の最終的な判断を保留し、たくさんのことを頭の一時的な記憶領域に入れたまま読み進めなければなりません。これではわかりにくいのは当然でしょう。

 一文が長いほうが良い場合というのも、もちろんあります。

(1)複雑なことがらを正確に表現する必要がある場合

 当然ですね。

(2)効果を狙う場合

 一つめは、「わざとわかりにくく書く」場合です。

ぼくはこう思います。

 パソコン通信で、こういう書き込みがあったとします。それに対するレスポンスとして、

たしかにそういう部分はありますが、ぼくはこれこれだと思います。

 と一文を長くして書くのと、

たしかにそういう部分はあります。でもぼくはこれこれだと思います。

 と区切って書くのとでは、印象が少し違うと思います。

 前者は、文全体の言いたいこと(ぼくはこれこれだと思う)に、前半部分の留保がついている分、自分の主張をわかりにくく、弱める効果を持っていると思うのです。
 後者は区切って書かれていますから、一文一文の意味がはっきりしています。そして二つめの文のほうが言いたいところであることが明確なため、主張がわかりやすく、力強いものになっています。

 ぼくの場合、パソコン通信では前者の書き方のほうがどうしても多くなってしまいます。意識していたわけではないのですが、考えてみると、効果を狙っていたんだなと思います。

 もう一つ例を挙げます。長くして「ため」をつくる場合です。

自分が心から愛した男を、はじめて、そして何度も心と身体を重ねあった、ただ一人の男性を、彼女は殺したのだ。

 ためてためて、最後に「オチ」をつける方法です。じらせばじらすほど効果がありますが、「オチ」にインパクトがなければ意味がありませんね。この場合は「殺す」という言葉だからそのままでもOKでしょうが、「惨殺したのだ」とか「ぶっ殺したのだ」とかのほうがいい場合もあるでしょう。もし「殴る」だった場合、そのままではなく「ぶん殴る」にしたほうがいいかも知れません。日本語は最後ですべてが決まってしまいやすいので、複合している動詞が多いのではないかと思います。「置く」ではなく「置いておく」のほうがリズムが良い場合など、よくありますよね。


「文」の集合である「文章」のわかりやすさにも、一文の長さは影響します。「文」は一つの意味上のかたまりであり、それが集まって「文章」になっています。「文」と「文」とのつながりは、接続詞によって表現されたり、それが明確である場合には何も書かれなかったりします。一文の中にいくつも屈折があると、文と文との関係をつかむのは困難になります。

「AだがB。だから、CだがD。」と言われても、「だから」が「BだからC」ということを表すために使われているのか、「BだからD」だということなのか、わかりません。一文が一つの意味のかたまりをはっきりと示すようにしておけば、文と文との関係も、接続詞がどういう意味で使われているのかも、明らかになります。

 構造化プログラミング、例えばC言語の経験のある人には、「文は関数のようなものである」と言えばわかりやすいかもしれません。ひと目でその意味(手続き)がわかるようにつくられたモジュールを組み合わせることで、全体の構造がつかみやすくなります。修正の際にも、順番を入れ替えるなどして全体の構成を変えたり、一部だけを修正して他の部分に影響を与えないようにしたりすることが容易です。

 もちろん、文章の書き方は自由で、多様な構成が認められるべきですが、ここでは「わかりやすさ」を問題にしています。一つの「文」を、一つの意味のかたまりとして、ムダなくすっきりと記述するということは、自分の頭の中のモヤモヤした考えを整理するということでもあります。そうして書いた文を組み合わせることで、複雑な内容を深く考え、わかりやすく伝えることができるのです。


2000年頃「テキストのテキスト7 一文の長さ」として発表した記事です。
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2010/09/19(日) 04:39:45

[文章の書き方] 自分の考えをまとめるための実際の書き方

 いきなり「完成形」で書こうとしていませんか。ごく短い文章ならそれでも書けるでしょうが、少し量のある文章になると、それでは良い文章は書けないはずです。もし書けるなら、ここを読む必要のない、文章の達人です。マンガでも、ひとコマ目から順番にペン入れの終わった完全な状態にしていったりはしないでしょう。全体のネームを書き、不要なコマを削ったり必要なコマを付け足したりしてコマ割りを終わらせ、えんぴつで下書きしてから、ペン入れに入るはずです。人物の顔を下書きする際にも、いきなり目の中から描き始めるのではなく、まず目と鼻の位置を示す十字の線から描きはじめますよね。一般に、完成形と出来上がる過程は逆になっているものです。それを最初から完成形にしようというのが間違っているのです。また、書き始める前に、これから書こうとする内容をしっかり考え、構成を練っておく、などというのも無理な話です。頭の中だけでそれができるのならば、誰も文章を書くのに苦労などしません。実際には、書きながら考え、書いてから考えて、何度も書き直しながら、完成形に近づけてゆくものなのです。「文章の書き方」で書いたとおり

一番重要なのは、「自分の書いたものを読み返し、納得いくまで書き直す」ことです。これがほとんどすべてだと言ってしまってもいい

のです。

 実際の書き方ですが、あとで書き直すことを前提にしているのですから、最初は細かいことを気にする必要はありません。マンガでいう、えんぴつによる下書きと同じです。「この漢字はこれであっていたっけ」「語尾がいつも同じで単調だなあ」「例として上げているこの数値は正確にはどんなだったっけ」などと考えることは、かえって文章の「のり」や「勢い」を損ないます。あとで整えられることは置いておき、まずは自分が書こうとする文章の内容のみに集中するべきです。そうすることによって、自分が本当に書きたかったことが見えてくると思います。

 思いついたことを、とにかくどんどん書いていくのです。脈絡のない、流れの良くない文章になってしまっても構いません。そうしていくうちに一つの事柄について集中して長く書ける部分が出てきたら、それがあなたの本当に書きたかったことである可能性が高いのです。直前に書いた文に刺激を受けて、あるいは前の文を書いているうちに、次の文が思い浮かぶようなら、その部分には「のり」や「勢い」があるはずです。そこをメインにしましょう。あなたが本当に書きたかったことは、それなのですから。

 以上が、「文章を書く目的」で述べた、「考えをまとめるため」の文章の書き方です。と言っても、「こうしなければならない」ということではありません。絵を描くのにも、下書きをする場合としない場合とがあり、また下書きをどの程度詳しくするかという段階もあります。文章を書くのも同じです。いきなりかなり「完成形」に近い形で書く方法もあれば、文の形でなく単語のられつ・箇条書きから始めて文章に近づけていく方法もあります。また、最初は「完成形」を書くつもりがうまくいかず途中から「下書き」に変更する、という書き方でも良いのです。重要なのは、「のり」や「勢い」を出せる、本当に自分の書きたいことを見つけることなのです。それがうまくいったら、「他人に考えを伝えるため」の文章にしていきます。


2000年頃「テキストのテキスト8 実際の書き方(1)」として発表した記事です。

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2010/09/18(土) 10:01:47

[文章の書き方] 必ずわかりやすい文章が書けるシンプルな法則(日本語の「文」の構造と読点)

 ちょっと文法的な話をします。難しいことを書くつもりはありません(難しいことがわからないからではありません、念のため)。文章を書く際に役に立つように、微妙な部分もあえて単純な書き方をします。
 その前に、文法とはいったい何なのでしょう? それは、文章を読む人が、誰でも無意識のうちに従っている読み方のことです。それに従って書いてあれば、誰が読んでもわかりやすくなる、という決まりごとです。
 ぼくたちが「文」を読むときに絶対に逆らえない「決まり」が一つあります。それは

必ず前から後ろへと順番に読む

 ということです。「文」の集まりである「文章」を読む場合には、途中にある「文」から、「文」単位で前に行ったり後ろに行ったりしながら読む人がいるかもしれません。そしてそれでだいたい意味もわかるでしょうが、「文」のなかでは、必ず前から後ろへと順番に読むはずです。
 文を書くときにはこの語順が重要なのです。
 日本語は英語よりもかなり語順に融通が利きます。それだけに、変な順番で言葉を並べてしまうと、ひどく読みにくい文になってしまいます。

ぼくは彼女は彼が死ぬまであの人と別れないと思ってた。

 例えばこの文。頭に思い浮かぶ順番に書いていくと、こういう語順になってしまいがち(注1)です(この例は少し極端かもしれませんが)。

彼が死ぬまで彼女はあの人と別れないとぼくは思ってた。

 これなら意味がわかるでしょう。
 なぜ最初の書き方ではわかりにくかったのか。それは、修飾する言葉と修飾される言葉とのあいだに関係のない言葉が入っていたからです。

修飾する言葉と修飾される言葉はなるべく近づける。

 のが基本です。おっとその前に。もっと重要なことがあります。

日本語では前の言葉が後ろの言葉を修飾する。

 のです。例えば、

彼女はあの人と別れないと彼が死ぬまでぼくは思ってた。

 こういう順番で書いた場合、「彼が死ぬまで」は「ぼくは思ってた」にかかるのであって、「彼女はあの人と別れない」にはかかりません。少しややこしいですが、わかりますか?
 ‥‥わかりましたね。はい、そうです。
 ただし、例外があります。

彼女はあの人と別れない、彼が死ぬまで。

 こう書いた場合、「彼が死ぬまで」は「彼女はあの人と別れない」の後ろにあって、前の「彼女はあの人と別れない」にかかりますね、間違いなく。
 この例では、「彼が死ぬまで」のあとに何も書かれていないので、前にかかるしかない、とすぐにわかります。しかし、重要なのは、

順番を逆にする場合には読点(、(テン))を入れる。

 ということです。上の例では句点(。(マル))でもいいのですが、ここでは「文」の構造について考えていますので、置いておきます。
 それから

長い修飾語ほど前に

 という決まりがあります。

真っ赤なヨダレが出るくらいおいしそうなリンゴ

 こう書いた場合、ヨダレが真っ赤なはずはありませんから(ま、そういう人もいるかもしれませんが)、「真っ赤な」は「リンゴ」にかかります。しかし「真っ赤なヨダレ」まで読んだ時点では意味がわかりません。ですから、

ヨダレが出るくらいおいしそうな真っ赤なリンゴ

 という語順のほうがわかりやすいはずです。

 それでもあえて「真っ赤な」を先に書きたい場合、「順番を逆にする場合には読点(、(テン))を入れる」という決まりに従って

真っ赤な、ヨダレが出るくらいおいしそうなリンゴ

 とすれば、まだわかりやすくなります。
 つまり、日本語は語順にかなり融通が利くのですが、わかりやすい語順というものは存在し、そのままではわかりにくい語順にするときには読点を入れるべきだ、ということです。あとで詳しく述べますが、さらに言うと、それ以外の場合にはなるべく読点を入れないほうがいい、ということになります。
 まとめると、日本語の「文」を読むとき、ぼくたちは

前から順番に、出てくる言葉が後ろのどこにかかるのか気にしながら読んでいき、テンのところで少し立ち止まる。

 ということになります。
 そして、

最後に述語。(注2)

 で、その文が終わったことを認識するのです。
 日本語の基本的な構造はこれだけです。主語や目的語といったものは必要ありません。

述語以外のものは他の部分を修飾している。(注3)

 のです。
 例を挙げてみます。

殺してやる。

 これは日本語の「文」としてしっかりと成り立っています。英語などでは必要な「主語」は、日本語には必要ないのです。

俺が殺してやる。

 こう書いた場合、「俺が」が「殺してやる」を修飾していると考えてください。

俺があいつを殺してやる。

 この場合、「俺が」「あいつを」両方が「殺してやる」にかかっている(を修飾している)ことになります。
 複雑にして、

彼女を心から愛していたこの俺が、あの憎たらしいあいつをいつかきっと苦しめながら殺してやる。

 この場合、「彼女を」「心から」は「愛していた」にかかり、「愛していた」は「この俺が」にかかります。ここまでの部分全体が、「あの憎たらしいあいつを」「いつかきっと」「苦しめながら」と同じく、最後の「殺してやる」にかかります。
 どの部分にもかからないのは最後の述語だけであり、それ以外の言葉はすべて他の言葉にかかっているのです。
 さらに複雑にして、

彼女を心から愛していたこの俺が、悪いことばかりしているあの憎たらしいあいつをいつかきっと苦しめながら殺してやる。

 こういう文章でも同じです。ただ、この場合、「この俺が」のあとのテンに注意が必要です。

彼女を心から愛していたこの俺が悪いことばかりしているあの憎たらしいあいつをいつかきっと苦しめながら殺してやる。

 これでも意味はわかりますが、「この俺が」のあとのところで少し戸惑う人もいるはずです。「この俺が悪いことばかりしている」とつなげて読めてしまうからです。「この俺が悪いことばかりしているはずがないのに俺ばかり目の敵にしているあいつを」と続いているかもしれないのです。
 このテンは、

長い修飾語が二つ以上続いているとき、その境目にテンをうつ。

 という決まりに従っています。
 テンが必要な場合というのは、先程の「逆順」と「長い修飾語」、この二つだけです。それ以外の場合はできるだけテンをうたないほうがいいのです。必要なテンと区別が付きにくくなり、文がわかりにくくなってしまいます。もちろん、必要でないテンをうってはいけない、というわけではありませんが、何でも、多用しすぎると効果は薄くなってしまうものだと考えてください。
 学生時代、教科書の本文のほとんどすべての部分にアンダーラインを引いている友人がいませんでしたか? 下線で強調されていないのは助詞だけになってしまっているような。ああなってしまっては、アンダーラインの意味がないと思うのはぼくだけではないはずです。全部を強調してしまっては、どこも強調していないのと同じです。
 文法的な話と言っても、だいたいこれだけです。文を書き直す際に、上記のことを意識していれば、かなり効率よくわかりやすく書けるようになるはずです。


注1

 話し言葉は、文字で書く文章とはかなり語順が違います。頭に思い浮かんだことから順番に話していっても、その場の状況、口調、身振り手振り、イントネーションなどから意味がわかるからです。
 たとえば

「フロントの人が隣のレストランで朝飯をどうぞって言ってます」

 という語順よりも

「朝飯、隣のレストランでどうぞ、ってフロントの人が」

 というような言い方をすることのほうが多かったりします。小説等でセリフを書く際など、テンを使って、書き言葉とは順番をあえて逆にして自然に見せる、という方法が有効です。ちなみにぼくは、日記や雑文を書いていて堅苦しくなるのがいやな場合、話し言葉に近づけるためにこの方法を使うことがあります。
 書き言葉でも、チャットの場合、

 いや、おもしろいんだって>同級生2

 というように、頭に思い浮かぶ順番に書いていくことが多いはずです。ただ、それだと意味がわかりにくくなることがありますので、「>」や「<」のような記号が多用されるようになったのでしょう。

注2

「体言止め」など例外もありますが、文章を書く際に気にする必要はありませんので、ここでは考えません。

注3

 接続詞や感動詞など、微妙なものもありますが、それらについて考えても文章を書く際に便利になるわけではありませんので、ここでは気にしないことにします。


2000年頃「テキストのテキスト5 日本語の文の構造と読点」として発表した記事です。
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2010/09/17(金) 02:56:09

[やる気を出す方法] 幸せになる方法(レコーディング・ハピネス)

幸せに対する感度を上げれば良い。
感度を上げるには目的意識を持つこと。
アウトプットするつもりでインプットすること。
毎日、幸せに感じたことをアウトプットすれば良い。
ベストは、他人に対して。自分が幸せだった話をちゃんと受け止めて聞いてくれる人に、話す。
子供が母親に一日の出来事を話すように。
でも、人の不幸は蜜の味で、自分の不幸はネタにして他人に話せても、よかったことはなかなか聞いてもらえないし、話せないことが多いと思う。
他人に頼らず、自分で日記に書くのもありだと思う。
書くと、残るので、後で読み返せるし。
今日の幸せに限らず、昔の幸せも思い出して書いてみると良いと思う。
なんか、寂しいし、一人でそんなことをするのに抵抗を感じる人もいるかもしれない。
けど、自分の不幸、他人の悪口をかき集めて、それを他人に話して相手に迷惑をかけることを考えれば、よっぽど健全だと思う。

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2010/09/16(木) 22:43:24

[文章の書き方] 「文章の書き方」を語る資格

 本題に入る前に、ちょっと寄り道をしましょう。
 ぼく(この文章の書き手)に「文章の書き方」を語る資格があるのか? という問題があります。
 ‥‥いえ、そんな問題は存在しないのです。
 文章で書かれた「文章の書き方」が現にそこに存在するのですから、その内容と文章から、役に立つかどうかを読者自身が判断して、自分に必要なところだけを参考にすればいいのです。
「自分には文章の書き方を語る資格がある」と書かれているだけで素直にそれを信じてしまう人は、普段から詐欺師に騙されないように注意したほうがいいでしょう(笑)
 ですが、市販されている「文章の書き方」の本には、この「語る資格」について触れている本がたくさんあります。おもしろいのでその理由をちょっと分析してみますが、簡単にいうと、書き手が恥ずかしいからでしょう。実際、ぼくも恥ずかしいです(笑) 「お前みたいなヤツが何をエラそうに」。そう言われたら返す言葉がないのです。
 しかし、自分の書いたものが役に立ったりおもしろかったりする可能性がほんの少しでもある限り、発表するべきだとぼくは思います。「恥ずかしい」などというのは書き手の都合にすぎません。

(1)実績

 極端なのが、D.R.クーンツの「ベストセラー小説の書き方」でしょう。大学で研究されているものや学者に評価されているものではなく、「売れているもの」こそがすばらしいものだと主張し、自分の書いた本がどのくらい売れているか、数字を挙げています。さすがクーンツ、というか、すさまじい力技です (笑) 反論できませんね。しかし、それだけで「自分には『語る資格』がある」と言っているわけではありません。ここが「ベストセラー‥‥」のすばらしいところだと思うのですが、クーンツはこう言っています。

 わたしはこの本を買ってくれた読者諸氏に、損をさせはしないことを約束しよう。わたしは金儲けを目的にこの本を書いたわけではない。わたしの受け取るお金は、同じ時間と労力を注いでわたしが別の小説を書いた場合の2,3パーセントにしかならないだろう。この本を書いたことは、わたしにとっては経済的に言えば愚の骨頂といえるものなのである。
 しかし、わたしは金儲けのためにものを書くのではない。それは誰にしたって同じだろう。わたしは楽しみを与えるために書いている。痛みと恐怖と残虐な行為でいっぱいのこの世界に、数時間の逃避と数分間の喜びや忘却を提供できるとすれば、すばらしいことではないだろうか。わたしは自己満足のために書くので、自分はそうでないと言いきるような作家はうそつきだと思っている。わたしは死ぬことが恐いから書く。もしかしたら、可能性はほんの少しだが、わたしの作品のどれかがわたしの死後も生きのびるかもしれないのだから。そうすれば、死をくじくことにもなる。
 わたしの考え、感情、希望、夢を伝えるためにもわたしは書く。ひとりぼっちのおびえた人々すべてに手をさしのべて、心の底では私たちは一人ひとり皆同じであることを知らせることも、作家の役目なのだ。無条件で互いに愛し合うべきだということではなく、例外なく誰にも好意を持てなどというつもりもない。つまるところ、まわりには退屈な人、間抜けなやつ、まったくの悪党などがいるものだ。が、皆ひとりぼっちでおびえているのにかわりはない。彼らもわたしたちと同じ苦しみや喜びを共有しているのだ。わたしたちは共通の運命の下にいるのにすぎない。
「わたしはひとりぼっちじゃない。わたしには恐いものなんか何もない」という人があったら、その人は自分自身をあざむいている。われわれはすべて孤独で恐怖に駆られているのだ。たとえ男の中の男というような人物にしても、また幸運にも結婚して愛し合っている人々にしても、心の奥底で、宇宙の虚無を無意識に感じとるとき、恐怖にかられるのである。ふだん、われわれはこの恐怖を自分自身にも隠している。全宇宙における自分の存在を問いつめてゆくと、広大な浜辺の砂粒よりも小さく、力ないものに思えて、ただもう耐えられなく、自滅的になってしまうものだ。だから、わたしたちは冗談を言い、大笑いし、目の前の出来事で気を紛らわせようとする。わたしたちが物語を読むのは、読むことで皆が一体になれるからであり、また神(あるいは生物学的な偶然)がわたしたちに与えた短い人生だけでなく、もっと多くの人生を味わうことができるからである。
 閑話休題。たった一人か二人の読者のためでもいい。君らがしっかりした技術を大切にする、すぐれた本職の作家となるためのはげみに本書がなるなら、これを書き上げるためにわたしの費やした時間は、価値ある時間となるだろう。


「損をさせはしないことを約束しよう」というのは恐ろしいハッタリですが(笑)、少なくとも金儲けのために書いているわけではない、と主張しています。日本人は自分のプレゼントを「つまらないものですが」と言って差し出すのが好きですが、ぼくはあまり好きではありません。ハッタリをかませ、とまでは言いませんが、胸を張って出せるように精一杯の努力はするべきでしょう。「これは手抜きです」と言われたものを読む気には、少なくともぼくはなれません。
「恥ずかしさ」を何とかする方法としては、「恥ずかしい」と思えなくなるくらいまで努力する、という正攻法だと思います。どんな場合でもそれができれば理想なんですけどね‥‥。
「ベストセラー‥‥」は、小説の書き方の本ですが、クーンツの書いたものなので、まず読者を楽しませることを意図して書かれています。読み物として非常におもしろいので、役に立つかどうかは人それぞれでしょうが、おすすめします。

(2)経験

(1)の「実績」とほとんど同じです。厳しくチェックされる新聞の記事を書いてきたとか、「文章修行」を何十年やってきたとか述べるパターンです。その結果得られたノウハウを公開する、というのは説得力がありますが、あんまりくどくどとそればかり書いているような本は要注意です。読者に安心感を与える効果はあるかもしれませんが、たいしたことを書いてないのにまるですばらしく役に立つかのように読者を騙している(書き手にその意識はなくても結果的にそうなっている)可能性があります。

(3)多少は論理的な言い訳

 いい文章を書ける人がいい「文章の書き方」を書けるわけではない、という主張をしている本もあります。それはたしかにそうです。実際、有名な小説家の書いた「文章の書き方」で、役に立たない、退屈な代物もたくさん存在します。しかし、だからといって、文章がうまいことで有名だというわけではない書き手が、「文章の書き方」を語る資格がある、ということにはなりません。いい「文章の書き方」を書けるなら、いい文章も書けるはずで、結局読者は書かれているものから自分で正当性を判断するしかないのです。まあ、書き手としては、ちょっとした予防線を張ることで気恥ずかしさを消そうとしているのでしょうね。

(4)ごまかし

 なんだかよく意味のわからないことを書いて読者を煙に巻き、結局「自分に資格があるかどうか」という問題をうやむやにしてしまうパターンです。こういうことを書く人は気分だけで文章を書いている場合が多く、非論理的で、どんな人にも役に立つ「文章の書き方」は書けない、とぼくは判断します。役に立つ部分も所々には出てくるかもしれませんので、結局自分で判断するしかないのですが。
 余談ですが、「言い訳になってない言い訳」ってよくありますよね。「どうして政治に興味がないんですか?」と訊かれた女子高生が「あたしぃ、そういうのって興味ない人だからぁ」とか答えるアレです。それ、言い訳のつもり? って言うか、それは答えになってないぞ(笑)

 結論としては、こう言うしかありません。ぼく(この文章の書き手)の書く「文章の書き方」は、あなたのプラスになる場合もマイナスになる場合も毒にも薬にもならない場合もあります、と。
 もちろん、できるだけ役に立つように書きますし、役には立たなくても、どんな意味ででもいいですから読み物としておもしろければいいなと思います。


2000年頃に「テキストのテキスト3 文章の書き方を語る資格」として発表した記事です。
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2010/09/15(水) 23:31:01

[文章の書き方] 表現は勇気

作家鈴木光司さん曰く表現する事は勇気を持つ事。花は美しいというと「美しくない花もある」という人が出てくる。そのクレームを想定し「美しい花もあるが美しくない花もある」と書く。それはもはや言う必要のない文となる。全ての人が納得する文では表現にならない。勇気が必要なんだ。力をもらった。


Twitter / 牧野克彦(SBSアナウンサー) / makinoana (2010/06/07 20:41:22)


もし表現したことに間違いがあったら?
間違いがないようにあらかじめ考えて、調べておかなくてはならない。
でも、科学って、実は仮説。反証があったときに、その仮説を修正するか捨てるかするのが科学。
そもそも反証ができなかったり、反証されても修正しないのが、ホメオパシー。
だから、間違いを恐れなくて良い。
みんなで考えていけるのが、ネットの良いところ。

文章の書き方としては、反論の余地があることを認識しながらもそれには触れない、あるいはあえて反論を誘う(いわゆる「釣り」)とか、架空の人物どうしの会話として書いて、漫才みたいに一人を暴走させてもう一人にツッコミを入れさせるとかの方法がありますが、いずれにしても、自分の考えがまとまっていることが前提です。

自分の考えをまとめながら書く時には、一文を短くして言い切ってしまうのが良いと思います。
特に、文章を書いているうちに何を言いたかったのか自分でわからなくなってしまう、という人がよくいますが、そういう人は、「美しい花もあるが美しくない花もある」と書いてしまっていることが多いのです。そう書いてしまうと、それ以上自分の中でも話が発展しませんし、そもそもなぜ自分が文章を書き始めたのかわからなくなってしまうのです。
ですから、間違っていても良いから短く言い切る文章を書いて、それにツッコミを入れながら考えていくのが良いでしょう。
そして、一文につき一つの意味を持たせて、最小の単位として扱うことで、頭が整理でき、「文章」が書けるようになると思います。


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2010/09/14(火) 22:45:31

[文章の書き方] 「文章」の構造と接続詞

 長い文章を書き慣れていない人に多いのが、「書いているうちに自分で何を言いたかったのかわからなくなってしまった」という状態です。書いていてそういう状態に陥りそうだなと思ったら、いったん「他人に考えを伝える」ことは置いておき、「自分が考えをまとめる」ために書くことに徹するべきです。
 その際に注意すべきことは、接続詞の使い方です。
 文章を書く際に、たいていの人は、思いつくことから順番に書いていくと思います。そうすると、自分の書いた文に刺激されて、新しく書きたいことが頭のなかで閃きます。そしてその新しく閃いたことを、また思いつくままに書いていく。こうして書いていくことで、「自分が考えをまとめる」ことができるはずなのですが、「何を言いたかったかのかわからなくなってしまう」のは、接続詞の使い方が誤っているか、不要な接続詞を使ってしまっているせいであることが多いのです。
 ここで「文章」を定義してみます。「文章」とは「文」の集まりです。「文」とは句点(。(マル))の次の文字から次の句点までのことを指します。
「文」は一つの意味の固まりを持っています。その「文」が集まって「文章」になっているのです。「文」と「文」とがどういう関係にあるのかを表すのが接続詞です。
 頭のなかにあることを順番に書いていくと、例えばこんな風になります。
 最初に一番言いたいこと(A)を書く。その文を書いているうちに自分で反論(B)を思いついて、「しかし」でつなげる。さらに、その反論には欠点があることに気づき、「でも」でつないでそれ(C)を書く。ここで一休みして、これまで自分が書いたものを読み返し、何か言い足りないような気分になって、本来言いたかったことを補強(D)する。しかしその補強の材料には留保(E)がついてしまう。さらに、書いている途中に連想によって主題とは関係のない文(F)が入り込む。
 こうして書かれた文章は、結局、「AしかしBでもC。AといえばF。Dという材料でAは補強される。ただしDはEということがあるのであまり強くいえない」というような文章になってしまいます。いや、こうなっていればむしろわかりやすいほうで、実際には、BがAへの反論になっていることや、EがDへの留保になっていることに気づかずに、誤った接続詞を使って、ただなんとなくつなぐことになってしまっている場合が多いのです。
 このままでは、「他人に考えを伝える」ことはもちろん、「自分で考えをまとめる」こともできません。
 まず、接続詞の使い方は正しいか、不要な接続詞を使ってしまっていないかどうか、自分でチェックしてみてください。そして正しい接続詞を使って書き直してみてください。この作業をやっているうちに、「文」と「文」との関係が把握でき、自分が何を表現したかったのか、自分でわかってくるはずです。すこし大変な作業かもしれませんが、慣れてしまえば、最初から正確な接続詞の使い方ができるようになり、さらには長い文章でも書き直しなしで書けるようになります。
 次に、順番を入れ替えることを考えます。先程の例で言えば、「Bとよく言われるけれども、それにはCと言う欠点があり、だからAである。Eというような場合があるとはいえ、Dなのであって、このことからもAということは間違いなく言える」というように、よりよく書き直すことができます。ここまで自分で書き直すことができた文章なら、「自分で何がいいたいかわからない」ということはないはずですし、「他人に考えを伝える」こともできるでしょう。
 ここでもう一つ注意すべきなのは、文章で他人に伝えられることというのは限られている、ということです。自分が思っていることの何分の一かでも伝われば大成功なのであって、とにかく一度ですべてを伝えようとしてしまわないことです。言いたいことを絞って、それだけをしっかりと伝えられるようにするべきです。同時に思いついた他のことは別の機会に譲るほうが、一番重要なことをはっきりさせられます。「もったいない」と何もかも詰め込まないで、ざっくり削ってしまうことも必要なのです。Fは別の文章にして、それだけでおもしろくなるように仕立てあげればよいのです。
 とにかく接続詞は重要なので、間違った使い方をしていないかどうか、曖昧な使い方になっていないかどうか、本当にその接続詞は必要なのか、効果的なのか、ふだんから意識して書くようにしてみてください。しばらく続けていれば確実に、わかりやすい文章を書けるようになります。


2000年頃に「テキストのテキスト4 文章の構造と接続詞」として発表した記事です。
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2010/09/14(火) 00:14:08

[GTD 手帳] iPad用Todo

iPad用Todoを使い始めて、GTD的なことが、すごくやりやすくなった。
GTD的なことが具体的に何かというと、田口元先生のこの記事がすごくわかりやすい。

GTDを実践している人の7つの習慣 - IDEA*IDEA ~ 百式管理人のライフハックブログ

この中の

2. To Doリストが状況別に整理されている
4. リマインダーツールを使いこなしている

については、紙の手帳はiPadに絶対かなわない。
毎週・毎月繰り返すtodoは自動でリストに追加されるし、整理・加除修正は紙では不可能なレベルでできる。
iPad用Todoは、普通のPCのソフトと違って、いつでもどこでもすぐに見られる。
終ったtodoはタップするだけで消せる(毎日やってると、タップして消すのが楽しくなってくる)。

最初todoを入力してソフト上で設定するのが面倒に感じたけど、使っていくと、セルフコントロール燃料がすごく節約できる。
何をしなきゃいけないか、考えなくてもiPad用Todoを立ち上げて見るだけ。
一週間に一回のtodoの洗い直しもラクチン。
細かいtodoが片付くと、項目をタップして消せるので、マメに動くようにもなった。
PCや紙では、同じ効果を得ることは不可能だと思う。
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2010/09/13(月) 21:40:18

[文章の書き方] 文章を書く目的

 文章を書く目的を、二つに分類してみます。
 一つは、「考えをまとめるため」、もう一つは「他人に考えを伝えるため」です。
 人間は物事を考えるのに、言葉(記号)を使います。そして自分がつくりだした文章(記号の集合)をみて刺激を受け、さらに言葉を重ねてゆきます。こうい う、いわゆる「対話法」で人間は思考しているのです。モヤモヤした自分の考えが、文章にしてみることですっきりする、というのはよくあることだと思います。
 もっとも、「考えをまとめるため」に文章を書く、というのは、未来の自分という「他人」に考えを伝えているわけですから、この二つを厳密に区別すること はできません。が、自分と他人とでは、その文章を理解するために必要とする知識に大きな差があります。また、自分の書いたものを読むときには書き手と読み手が一致しますから、書き手の意図を読み手が最初から知ってしまっている、という問題があります。
 大事なことは、「読み手を意識する」ということです。仲間内での文章のやりとりやチャットではすらすらとキーをタイプできても、WEBページの文章、小説や評論のような文章は書きにくい、というのはよくあることだと思います。誰に対して書いているのか、そのイメージを持たなければ書けないはずです。
 さて、この文章は誰に対して書いているのでしょう? 主に、「いい文章を書きたい」と思っている人に対して、ですが、なんとなくここを読んでしまった人をも意識しています。「文章の書き方」では「とにかく読み返し、書き直してください」と述べました。このカテゴリの他の文章では、読み返し、書き直す際に注意すべき点を述べます。必死に「いい文章を書きたい」と思っているわけではない人にも気軽に読んでもらえるように、文章自体で楽しんでもらえるように、書いていくつもりです。


2000年頃に「テキストのテキスト2 目的」として発表していた記事です。
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2010/09/13(月) 07:13:03

[文章の書き方] こだわり

 彼は学校に向かっていった。

 この文は、あまり深く考えなければ、三つくらいの意味にとれると思う。
「彼は学校に向かって行った」と「彼は学校に向かって言った」、そして、「向かっていく」を抽象的にとって、「対抗する」とか「対決する姿勢をみせる」とかいう意味。

 彼女はいった。

 この文なら、「彼女は言った」「彼女は行った」「彼女は逝った」「彼女はイった」(笑)くらいが、すぐに思いつく。

 書く際の効率を考えれば、「いった」をそのままひらがなに変換するようにしておくのがいちばん良い。
 いくつかの候補から最適の漢字を使った表現を選び出すことは、さほど手間ではない。が、それ以前に、「選ぶ」つもりで書くのと「選ばない」のつもりで書くのとでは、書いているときの意識の働きかたが全然ちがう。最初から「選ばない」つもりで書くほうが、はるかに速く書けるのだ。まず書き上げてから手直しする、というのは非常に面倒な作業だ。どれも「いった」になっていて、検索ができないから。
 では、読むときはどうだろう。「彼女はいった」で、すぐに意味は通じる。この文だけが独立して置かれている場合には少しとまどうが、そんなことはあまりない。たいていは文脈というものが意味をとる手助けをしてくれるからだ。
 それでもぼくは、「言った」「行った」「逝った」「イった」と書きたい。

 世間には文章があふれている。新聞・雑誌やパソコンソフトのマニュアルだけでなく、パソコン通信やインターネットからでも、いくらでも手に入るし、向こうから飛び込んでくるし、読まなければならない場合もたくさん起こる。しかも、読んでしまわない限り、どういう文章が書かれているかはわからないのだ。
 読んでおきたい文章が限りなくたくさんあるとき、ほんの少しでも思考を中断させられたくない。余計なストレスを感じたくない。
 また、多くの人が読む文章の場合、書く際の手間と、読む際の手間とでは、読む際の手間のほうが省かれるべきだと思う。ほんの少し引っかかる場所があるだけでも、読み手全員のことを考えれば、書き手の手間の方が、(人数×手間)の値は小さくなるはずだからだ。
 そして書き手としても、ライバルが数限りなくいる状態で、しかもぼくのような特別な才能のない書き手としては、そういう細かい配慮で勝負するしかない。
 だからぼくは「言った」と書きたいのである。「おまえの文章を読んでるヤツなんていないよ」と言われれば、その通り。「そんなのたいした違いじゃない。もっと重要なことがあるはずだ」と言われても、その通り。しかしこれは、ぼくの好みとこだわりの問題なのである。カッコをつけた言い方をすれば、美学の問題である。上記はそれを正当化するためにあとで付け加えた論理にすぎない。


1997年6月22日に発表した文章です。
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2010/09/12(日) 17:53:42

[続ける方法] セルフコントロールは消耗資源

自己管理は心身を消耗する。
経験的には明らかだが、さまざまな実験・研究によっても証明されている。
スイッチ! 』に、以下のような例が載っている。

・クッキーを食べるのを我慢させられた人は、パズルを解くための試行回数・時間が落ちる
・悲しい映画を、感情を抑えて見るように指示された人は、自由に泣いた人よりもその後の身体持久力が低下する

もちろん、セルフコントロール用燃料タンクの大きい人と小さい人がいるだろう。
燃料タンクの大きい人の方が成功しやすいのは間違いない(勝間和代がテレビで、クッキーを我慢できる子供の方が将来トクをすると言ったように)。
でも、なるべく燃料を使わないようにすることも重要。
なにせ、自分が疲れている(セルフコントロール燃料を使いすぎていて我慢ができなくなっている)ことを認識しないまま大事な仕事をして、失敗することさえあるのだ。
それから、やる気になっているときには、セルフコントロール燃料が無限にあるかのような思い違いをしてしまう。
酒をやめ、タバコをやめ、テレビをやめ、適当な量とバランスの食事をし、適度な運動をし、愚痴を言わず、妬まず、怒らない、ということを急に明日から一気に始めても、うまくいくはずがない。

セルフコントロール燃料を節約する方法は、いくらでもある。
踏み台昇降運動なら、着る服や履く靴のダンドリも、「がんばろう」という決意も決心も、気にしなきゃいけない注意点も、何もなく、完全に自動的に体を動かすだけで、運動ができる。
体重計と画板とノートとペンをトイレの横に置いておけば、毎朝起きてトイレから出てすぐに体重が記録できる。
余計なことを考えないようにする(特に、考えても意味のない不安について考えない)ことも重要だろう。

燃料を使うのは、我慢をする時だけじゃない。ちょっと気を遣って考えるだけでも、疲れるのだ。
だから、事前にできる意思決定は、あらかじめしておく。「その時になって考える」のではなく、具体的なある状況になったら、判断せずに行動できるように決めておく。
『スイッチ!』で「意思決定の事前装塡」「アクション・トリガー」と言われているものだ。GTDでいう「次にとるべき行動」だ。
これの効果が絶大だということも研究で明らかになっている。

燃料タンクを大きくする訓練をするなら、正しいことがわかりきっている行動を決心するためにセルフコントロールを使うのではなくて、もっと複雑で高度で重要なことに細心の注意を払って取り組んだ方が良いだろう。
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2010/09/12(日) 09:49:58

[やる気を出す方法] 「自分探し」は下らないか?

くだらなくない。
ただし、コストは高い。「自分」は、わざわざ鏡に映して見なければ見えない。記録するのも面倒。
失敗すると、超一流サッカー選手から「旅人」になってしまうリスクもある。
でも、人間がコントロールできるのは自分だけ。
自由は、自分の強みで勝てるゲームを探さないと、手に入れられない。

アイデンティティとか思い入れとか想像力とかプライドとかがないと、ゲームに緊張感がなく、つまらない(思い入れ・緊張感・想像力)。
びっくりするような強い意志は、強烈なプライドから生まれる。

自分が「ない」なんてことは、ない。生まれてきてからこれまでの自分の歴史を書き出してみると、書ききれないはず。
これまでの自分が気に入らなければ、新しく作ればよい。
幸いなことに、我々には、「行動を起こすたびに、その行動の裏にある動機となる感情、姿勢、信念を強化している」という「自己創造の原則」がある(「続ける」小手先の技術に頼らない)。

パブロフの犬的に作られた、自分の「好き」なものの集合は、自分ではない。
自分がやってきて得意になったこと、やりたいと決めた意思が人より強固なもの、が強みで、活かしたいと思う強みが、自分。

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2010/09/07(火) 01:11:49

[日記] 思い入れ・緊張感・想像力

2003年1月27日の日記です。


『ドラゴンクエスト・キャラクターズ トルネコの大冒険3 ~不思議のダンジョン~』をちょっとやってみた。つまらん。死んでもレベルそのまま、アイテムも個々について1/2の確率でなくなるだけ。しかも簡単。緊張感なし。

「次にこの行動を取ったら死んでしまって、数十時間の苦労が水泡に帰すかもしれない」という想像力。

「HP1で、普通ならもう完全にダメってピンチを脱した自分のあのときのひらめき。あれがあるから今の最強装備があるんだ」という、自分だけの物語。

 そこからくる、「冒険してる」って実感。

 そういうのさえあれば、いつまででも、何回でも繰り返し遊べるんだけど。違う方向に行っちゃってる。緊張感追求、グラフィック等強化、操作性向上だけのシリーズ続編で良いと思うんだけど。


 恋愛の楽しさとか素晴らしさ、そんな抽象的なものじゃなくても、とても楽しそう、幸せそうな恋人同士の様子を描いた、例えば恋愛小説、テレビドラマ、映画、少女漫画、そういうのを直接・間接に体験してなけりゃ、人のことを「好き」になんか、ならない。like ならあるだろうけど、いわゆる「恋愛」にはならない。悔しいけれど、世間の「恋愛教」の教徒たちのいうことに耳を傾けたほうが、幸せになれたりする。しかたない。仕事に対するやりがいとかも、そう。自分のやりたいことをやって給料をもらってる、ごく小数の幸せな人たちを除いて、ほとんどの人が、自分の仕事がどういう意味を持ってるのか、想像力を使わなければピンとこないはず。大企業、大きな組織なら、自分の役割って、限定されてるだろうし。料理人なら、「自分の料理をお客さんがおいしそうに食べてくれる」ことにやりがいを感じるだろうけれど、例えばその人が厨房から出られないシステムになってたら、お客さんの姿を直接見ることはできないわけだから、想像するしかない。そういう想像力。日本人として日本という国に住むことができている幸せとか、日本という国を今の形にしてきてくれた先人に対する感謝とか、それにともなって出てくる責任感、使命感、誇り。そういうのがないと、人生の中のひとつひとつの出来事に対する実感ってのがなくなって、ただ睡眠欲・食欲・性欲を満たすだけの生活になっちゃう。緊張感のないトルネコと一緒。つまんない人生。死んだってアイテムやレベルがなくならないから、「まあいいや」ってだらだらプレーしちゃう。精神的に失いたくないもの、守りたいものがないなら、動物と一緒。それがプライド。人間にとって大事なもの。と思うんだけどね。

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2010/09/05(日) 17:45:33

[文章の書き方] 文章の書き方

 一番重要なのは、「自分の書いたものを読み返し、納得いくまで書き直す」ことです。これがほとんどすべてだと言ってしまってもいいでしょう。
「いい文章を書きたい」と思ってこのページを読んでくださってる方には言うまでもないことです。自分で読み直すだけでは気づきにくい部分が問題であり、書き直す際に効率よく作業が行えるようにすることが目的です。
 しかし、それでもあえて強調します。とにかく読み返し、書き直してください、と。
「よく意味のわからない文章ですいません」とか「乱文失礼します」とか書かれた文章をよく目にします。その一行を書くくらいならもっとちゃんと書いてくだ さい、とぼくは言いたくなります。いえ、たいていの場合は、そんなにひどい文章じゃないんだから気にしなくていいのにな、と思うだけなのです。しかし、本当にまったく意味のわからない場合もあるのです。そんな文章は読まずに済ませられればいいのですが、実際には読まないわけにいかない場合があります。おも しろそうな内容が書いてあることはわかるのに、肝心の文章の意味がわからない場合もあります。
 ほんのちょっと自分の書いたものを読み返して書き直してくれれば、そんなに怖がったり恥ずかしがったりしなくていいのだし、こちらもすぐに意味がわかるのにな。そう思うことが結構あるのです。


2000年頃に「テキストのテキスト1 いきなり核心」として発表していた記事です。
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2010/09/05(日) 17:28:04

[自己啓発書] 不幸になる生き方 ~ 人はなぜ勝間本を読むのか

 昔別れた女が私の一人暮らしの部屋に置いていったミニチュアダックスフント、小次郎。
 この「化け犬」が、人間の言葉をしゃべって私に説教とオヤツの要求をした、その後。
 私の方から、飼い犬である小次郎に対して、頭をなでたり、要求を呑んでオヤツを与えたり、猫なで声で話しかけたり、大声で怒鳴ったりしてやった。
 しかし小次郎が私に対して不思議な「声」で話しかけてくることは、その後は一向になかった。
 あれは、職場の人間関係のストレスが引き起こした幻聴だったのだろうか。
 それともこの「化け犬」、何か考えがあって、あるいは単なる気まぐれで、あえて私と話をしないようにしているのだろうか。
「こら、小次郎」
 いつものソファの上で顔を縁に乗せて気持ちよさそうに眠っている化け犬に対し、私は話しかけた。
 小次郎はいつものように、目を半分だけ開けて、顔は動かさずにこちらを見る。
「何とか言え、この化け犬」
 小次郎はソファの上で立ち上がり、ソファから飛び降りて、私を上目遣いで見た。
《うるさいオッサンやな、何や》
 頭の中に直接響いてくるような「声」。ちなみに、完全に「オッサン」の声である。その声に「オッサン」と言われるのも腹が立つ。
《ヒマなんかいな。わしに話しかけてるヒマがあったら、本でも読んどきゃええやないか》
「本を読むのもな、20分に一回くらい、すこしだけ休憩を入れた方が効率が良い」
《まああんまり、生産的な読書でもないみたいやけどな》
 先ほど私がベッドの上に置いた勝間和代の『不幸になる生き方』を横目で見ながら、小次郎は「言った」。
「何もやる気がないから、とりあえず勝間本を読んでいるんだ」
《やる気がなかったら、勝間和代の本を読む?》
 やる気がないというか、難しい本を読むには気合いが足りない。腹は減ってない。性欲は高まってこない。何かを考えるのは面倒くさい。とりあえず勝間本でも読むか、という感じなのだ。
「うーん、説明が難しいな。あんまり気合い入れなくても読み始められるんだよ。だいたい、知らないことばっかり書いてる本なんて、まず読めないだろ?」
《そらそうや》
「勝間和代の本って、知らないことは書いてないんだよ」
《そんなん読む必要ないやん》
「違う違う。普段何となく自分で思ってることが、はっきりしたわかりやすい文章で、出版されてそこそこ売れてる本に、書いてある。ああ、俺が思ってたことは正しかったんだ、と。勝間先生も言ってるよ、と」
《ふむ》
「人間、自分が信じたいものだけを認知するんだよ」
《バカだな、人間》
「まあ、バカだ。そして、その、信じたい内容というのは、ごくごく単純。勝間本のタイトル通り。『やればできる』」
《なるほど》
「本当は、何かやりたいと思ってるんだ。まあ言ってみれば、“やる気を出す気”はあるんだ。そんな状態で、『やればできる』というメッセージを受け取ったら、“できるならやろう”と思うだろ? だから、やる気が出るんだよ。背中を押して欲しいから、読むんだ」
《何かややこしいが、まあ言わんとすることはわからんでもない》
「しかしな、しょせん、“できるんだったらやろう”と言うレベルのやる気しか出ない。自分の内側からわき上がってきたやる気じゃないから、ちょっと壁に当たると、すぐやる気をなくす」
《アカンやん》
「しかし、一時的にでも“自分にもできるかも知れない”という夢を見せてくれる勝間先生は偉大だよ」
《“再現性のある方法”とか、“技術”とかいう言葉を使って、“世の中、理屈で解決できるんだ”って姿勢を徹底して見せてるみたいやな》
「その通り。でもな……しょせん、他人がうまくいった方法なんだよ。自分なりにアレンジしなきゃ、うまくいくはずがない。やってみて、失敗したら原因を分析して、もう一度やらないといけないのに、一度失敗すると“できないかも知れない”と思うから、もうやる気が出ないんだ」
 小次郎は雨に濡れたときにやるように、両足を広げて踏ん張り、身体をブルブルと震わせた。別に濡れてはいないので、水は飛び散らない。「あほらしい」と思ったのかも知れない。
「考えることさえも面倒くさくて、とにかく書いてあることを読むだけなんだ。何も考えずにその通り実行するだけで結果が出る、結果が出ると思わせてくれる方法論を求めて、新しいものが出るたびにそれに飛びつくんだ」
《ダイエット法、ライフハック、仕事術……》
「そう。大事なのは方法論じゃない。試行錯誤だ。しかし、他人の方法論、成功体験は、その通り『やればできる』と思わせてくれる。中毒になっても仕方がないよ」
《お前さんは中毒になってないと主張するわけやな》
「当たり前だ。私は単に、面白いから本を読んでるだけだ。たしかにダイエット本も大量に読んだが、一切実行に移していない。そんな気がない。勝間が本の中で紹介しているノートパソコンや自転車やその他買うだけで成功できる気にさせてくれるグッズも買ってない。ムダな時間もカネも使っていないんだから、私はだまされてはおらんのだ」
《まあ別に、勝間がだましてるとも、世間の人がだまされてるとも思わんが……。お前さん、前につきあっていた女性が、勝間和代に本気で嫉妬してたな》
「女性の気持ちは私には全くわからん。

自分をデフレ化しない方法 (文春新書)チェンジメーカー断る力 (文春新書)

3つ並べると、ほとんどギャグだぞ、これ。これに女性として嫉妬するなんて……」
《普段覇気のないお前さんが、元気を出してしゃべったときに、話題が勝間やったんやろ》
「たしかに、やる気のない状態から読めて、ちょっとだけやる気が出るからな……『不幸になる生き方 (集英社新書)』も、反論に対して遠慮しながらも、“技術だ”“方法を知ることだ”と力強く訴えてる。最近ちょっと無理矢理な感のあったフレームワークも、この本については、プロローグと目次を見ただけで一目瞭然、良くできてる」
《アフィリエイト付きのリンクをして、褒めたな……お前さんも勝間みたいに、金持ちになれたらええね……》


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2010/09/05(日) 17:20:50

[自己啓発書] 単純な脳、複雑な「私」

 勝間和代の『効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法』を、小飼弾は「浪費しない、投資を惜しまない」と要約した。
 断言しよう。私は社会人になってからの10年間というもの、「投資しない、浪費を惜しまない」生活を送ってきた。
 私は、勝間和代のほぼすべての著作、『夢を叶えるゾウ』、スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』、フィリップ・マグロー『史上最強の人生戦略マニュアル』、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」、『金持ち父さん貧乏父さん』、その他数々の自己啓発書を読んできた。
 しかし、それを自分の人生において実践したことなど一度もない。
 はっきり言っておく。おまえらは、他人が書いた、世間で流行っている本を読まなければ、自分の人生さえ送れないのかと。
 私は自分で自分の人生を送る。
 自己啓発書を読むのは、それが戯れ言として面白いからである。私は面白がるために本を読んでいるのであって、実用に役立てようなどという低俗な発想は私にはない。
 したがって、今現在も私は、酒を飲みながらPCに向かい、ブラウザを立ち上げ、検索窓に「dmm」と入力している。
 私は勝間和代と違い、何でもかんでも効率効率と貧乏くさく時間を使うのは大嫌いなので、ブックマークをしてツールバーにリンクを表示させたりするようなことはしない。検索窓に「dmm」と入力する程度の手間は惜しまないのである。もし仮に、私の部屋に女性が来なくなってかなりの歳月が過ぎており、私の PCを女性が使うことなどなくなっていたとしても、この習慣を変えることはない。
 やがて気持ちが高まってきたので、私は椅子から立ち上がり、ティッシュペーパーを取りに部屋の中を移動した。そして少しだけ気持ちを落ち着け、再度モニターの中に神経を集中した。ますます気持ちが高まってくる。その時。
《くぉるぁ!》
 ドスのきいた声で一喝された。
 もちろん、他人のいるところで日本の誇るdmmの優秀なコンテンツを鑑賞しながら気持ちを高める趣味は私にはないので、この部屋には私しかいない。
《オナニーばっかりしやがって。たまには読んだ本に書いてあること実行せえ、バカ》
 どこから声が聞こえてくるのだろう。いや、声じゃないような気がする。ものすごくリアルに、過去の経験を思い出しているときのような。脳に直接、「人がしゃべっている」という情報がインプットされてるような。夢の中で音を聞いているときのような。
《ほんっまに、人間のくせに。本読めるくせに。欲に動かされてるだけやんけ。情けないのう》
 正確に言えば、この部屋には、私の他に、小次郎という名前の犬がいる。昔別れた女が置いていった、ミニチュアダックスフントだ。マンションの室内で飼っているが、吠えたりすることはなく、他の部屋の住民に迷惑はかけていない。散歩に連れて行くと、犬好きはみんなこの犬のことをじっと見る。「かわいい」と言われる確率も相当高い。おとなしくてかわいらしい風を装っているが、実は気にくわないことがあると部屋中に小便を撒き散らして飼い主に抗議する。私がそれを最も嫌がるのを知っているのだ。実に恐ろしく、性格の悪い犬である。
 私は小次郎を見た。小次郎はいつもの上目遣いで私を見ている。
 声が聞こえる。
《人間のくせに、食って寝てオナニーしてるだけか、お前は。犬のオレでさえ、去勢され、食事を制限されることに耐え、身体を鍛え、日々思索にふけっているというのに》
「――お前か?」
 私は問うた。犬の小次郎に。
 小次郎は、私に話しかけれらた時にいつもそうするように、定位置のソファから飛び降り、私の足元にやってきて、私を上目遣いで見ながら、しっぽを振った。
「腹減ったんか?」
 小次郎はますますしっぽを強く振る。
 私の高まった気持ちは、すっかり萎えてしまった。小次郎専用の皿を洗い、ドッグフードを入れる。いつもの場所に皿を置き、「待て」と言ってしばらく動きを止めさせてから「よし」と言って食べるのを許可する。
 小次郎はガツガツと音を立てながらドッグフードを食う。一気に食い終わると、今度は水を、ピチャピチャと盛大に音を立てながら飲む。飲み終わると定位置のソファに飛び乗り、長い胴体をくるりと巻く用にして、ソファの縁に自分の顔を乗せ、目をゆっくりと閉じる。「食った食った。満腹だ」という心の声が聞こえてきそうである。
 小次郎が食事をしている間、先ほど聞こえた、頭の中に直接響いてくるような「声」は聞こえなくなっていた。
 小次郎なのか?
 いつも、こちらの考えを見透かしているかのような表情をする犬ではあった。話しかけたことの意味がわかっているようでもあった。いつかしゃべり始めるのではないかと、半分本気で考えたこともある。
 しかし、なぜオレを罵倒する。
 しかも、偉そうなことを言っておきながら、自分はメシを食って眠れさえすればそれでよいのだろうか。
 ふざけた犬だ。
「おい」
 ソファに寝そべったまま、顔を上がることすらもせず、目だけを半分開けて私の方を見る。
「小次郎!」
 あくびをしやがった。
「お前、明日はオヤツ抜きだ」
 小次郎は起き上がり、ソファから飛び降りた。床に座り込んで、私を見上げた。抗議のポーズだ。
「お前、飼い主に対して、なんであんなこと言うんだ。しかもあんなタイミングで」
《うるさいオッサンやなあ》
 声が、聞こえた。
 小次郎は、相変わらず上目遣いで私を見ている。
《実際その通りやろうが。人間のくせに、欲を何一つコントロールできん。飼われてるワシが情けないわ》
 なんと言うことだ。小次郎がしゃべってる!
《わしゃ、お前さんに飼われとる犬や。自分では、食欲や性欲はコントロールできん。しかし、コントロールした方が良いのはわかっとる。散歩の時に見かける、まともに歩けないほど太ってしまった他の犬のことを考えれば、お前さんがワシの食事をコントロールしてくれてるおかげで、毎度の食事が、例え栄養のことだけしか考えられてない安物のペットフードであろうとも、美味しく感じられる。健康で、ボールを追っかけて走り、身体を動かす楽しみを味わうことができておる。いい加減、もっと良い音が鳴って噛み応えのある新しいボールが欲しいがな》
 小次郎は「しゃべって」いる間、ずっと私の方を見たまま、動かなかった。
《食べるとか、寝るとか、そんな欲求でさえ、コントロールした方が、より食べることや寝ることそのものを楽しむことができる。ましてや人間が、生存とは直接結びついていない欲求をコントロールできず、結果的に不幸になったり、身体を壊したりしているのを見ると、本当にアホじゃないかと思うな》
 しかし、しゃべっている内容は、とても犬のものとは思えない。まして、犬好きが必ず振り返るほど一見かわいらしいミニチュアダックスがしゃべっているとは。
《動物は本能で動いていると思っている人間が多いらしいが、そんなことはない。ちゃんと学習した結果身につけたものによって動いている。まあ、「パブロフの犬」みたいな単純な反射が多いがな。しかし人間だって、似たようなもんだ。お前さんがこの前読んでた『単純な脳、複雑な「私」』に書いてあっただろう。人間の行動が起きる過程の話だ》
 小次郎が言わんとすることはわかった。脳科学者池谷裕二の本には、こう書いてあった。
 人間が行動を起こす場合、まず脳が行動の準備を始める。そして準備が整って、行動を起こすことができるようになってから、「行動を起こそう」という意思、意識が生まれる。これは実験で確かめられている。順番として、「行動を起こそう」という意思が最初ではないのだ。
「行動を起こそう」というのは、自由な意思ではない。脳が先に準備をしてから作っている意識だ。
 自由意思などない。
 ただし、ここから池谷裕二は、重要な、我々にも受け入れやすい事実を教えてくれる。
「行動を起こそう」という意識が生まれたあと、実際に人間が行動を起こすまでには、時間があるのだ。この時間を池谷裕二は「執行猶予」と呼んでいる。この時間に、我々は、その行動を起こさないことができる
 つまり我々は、自由意思で行動の準備を始めるわけではないが、行動の準備ができた後に、その行動を起こさない権利を持っている。
 自由意思はないが、拒否権はあるのだ。
《拒否権を使わないのなら、意識なんかなくて良いのだ。人間のくせに。もっと考えろ》
 小次郎は言った。
《そして、オヤツをくれ》
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